紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


しんかする

文芸誌を久しぶりに読んでいる。『文藝』は文句なしに決めたんだけど、『すばる』は迷って、やっぱり買った。「はじまりの名前」という小説が三番目に載っていて、なんともいえずよかった。作品をみるときの「面白い」と「好き」について最近よく考えるが、ともかくわたしはこの小説が「好き」だ。それはわたしのあり方と似ている部分があるからで、人によったら全然好かんのだろうとも思う。でもその人もわたしとは別の観点でそれを「好き」と評することもあるだろうな。

すばる 2016年8月号〔雑誌〕

すばる 2016年8月号〔雑誌〕

 

それで、出てくる男が気を紛らわせるために、集中できないときとかに、ボードゲームをするという描写があって、わたしも脳をスッキリさせたいのだと思いついて、小説をどうにか最後まで読んでからジグソーパズルを引っ張り出してきた。時間がないのがわかっていたので300ピースで北斎の浮世絵のパズルにした。富嶽三十六景(変換でなくて愕然とする)の、いろんな富士がかいてあるやつ。ピースをしらべてはめ込みながら、これって本当によく観察するから、スケッチと同じで、色のうつりかわり、こまかなノイズの入り方、人為的な枠線なんかのすべてがヒントとなってやってくる。あ、そう、ノーヒントでと思って、見本を伏せてやったのでした。だから余計に。

分不相応とわかりながらもう少しパズルを増やそうとする。同居人はパズルが苦手だからいい顔をしないだろうな。かしこい人はジグソーパズルをやるでしょうという思い込みは打ち砕かれた。か、かれがかしこくないか、だけれど。実家ではパズルは父親と妹たちが専門家だった。

感傷にひたってものを増やすこと、かしこくないなと思うのだけど、ひたらせてよ、とも思う。だれも引き継がないのなら形見分けみたいなものでもあるし。抱え込むことはこわい、が持っていきたいものもある。前の代からもらうものと自分の代で得た形質をまぜながらだよなぁ、とか。とかとか。