紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


自分のことをちゃんづけする女と彼pippi

少し前から、たまに、自分の一人称が "名前+ちゃん" にしているときがある(つまり、 仮に "紙ちゃん")。そういうことをする人間は "子ども気分が抜けない" "自己中心的な"、はたまた "かわいこぶりっこ" である、という思想がある。わたしも深く考えず、その説をなかば支持していたのだけど、いざ自分がそうなってみると、そうでもないなという気がしている(とはいえ、これらは外側からの評価であり、自分自身であるわたしが違うといったところで否定とはいえないかもしれないが)。

そもそもなぜそう呼称するようになったのかというと、わたし自身、ちゃん付けで呼ばれることがほとんどなくて(さん付けばかりの人生である)、小学校低学年の時分に名前の一文字目+ちゃん(つまり仮に ”かっちゃん”)と呼ばれたくらいであった。他人ですらわたしをちゃん付けすることに違和感があり、ちゃん呼ばれからは遠い存在であった。しかしヒナ氏である。10年ほど前にわたしの人生にあらわれたこの人はわたしに "ちゃん" を付けて呼んだ。かれなりの好意のあらわしかたなのだろう(が、子どもっぽいなぁと思って気に入ってなかったんだよ)。そして同居がはじまると、はじまったとたんに呼び捨てになったので(!!!(それもどうなのか(当時はふるえた(今思い出してもふるえるぜ))))、”ちゃん” 付きのわたしはどこかへ消えてしまった。それが数年間の潜伏期間を経ての復活である。しかも自分の口で。まさかのリバイバルである。この世でわたしにちゃんをつけて呼ぶ人はわたししかいないのである。という感じで、この逆密室みたいな状況が形成されたのであった(逆密室とは)。

いざ、"紙ちゃん" と自分を呼称してみると、自分である感覚はほとんどなくて、他人のことを、親戚の誰かくらいの感じで話しているような気分になる。自分を "ちゃん" 付けで呼んでみてもまったく自己中心的でもないし、(自分自身ではないのだから)かわいこぶりっこでもないということがわかった。むしろ、自分を "ちゃん" 付けは、自分を自分ととらえられない離人症的な感覚が強い行為なのであった。

そしてカレピッピである。オブラートに包む元気もそろそろ喪われてきているのだけど、完全にのろけ100%の阿呆なカップルの言説であると考えられてきていたが、生活を共にしていくうちに互いの名前に飽きてきて、そのうちに名前自体が空気に馴染みすぎて無になってくる。そういうときに人は相手を「おい」とか呼ぶのかもしれないが、場合によってはヴァリエーションで対応するのだろう。カレシ、カレピ、カレピッピ……。装飾2000%に思えるこれらの語尾の活用は無になりかけた存在に彩りを与える、おかずがなくなったごはんに添える、戸棚から出してきたふりかけみたいなものなのだ。飽きてきたらピをふり、また飽きたらピッピをふり、さらに飽きたらピョルをふりかけるのだ。これはマンネリを厭う人間の営為であり、関係を持続させるための智恵なのだなぁと思う次第。阿呆カップルをあなどるなかれ。