紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


止まってくれた人ありがとうございます

それと、「自転車もありがとうございます」、とも。律儀に放送しながら赤い車がぺーぽーぱーぽーと走り去っていった。右折待ちのバスを制止してその横をふくらんで走り抜け、その瞬間は車線が三つに拡がった。運転が上手と単純に思い、あの大きな車の運転練習はどこかでしているんだろうか。すべて実践では火災現場にたどり着く前に傷だらけになってしまう。アナウンスとかもある程度は乗る人の裁量にまかされているんじゃないだろうか。あんなにお礼を言いながら走っているのはじめてみた。と同時に「止まってくれなかった人」に対しての牽制かもしれない。とか。

自転車の違和感に気づいたのは家から少し離れた地点で、降りて車輪をさわってみると柔らかかった。帰宅して空気を入れるか迷うがそのままにする。行って帰って三十分がんばってくれと思いながら。自転車も力が入らなかったし、わたし自身も力が抜けていて、惰性以上の推進力はもてなかった。ゆらゆらと、力を入れること、入れられることを知っているけれど自然にしていると力の入っていない状態だった。最近そういうことが多い。

気がつくと大きな公園の横まできていて、ここを抜ければショートカットできるし、なにより緑の中を走るのは涼しかった。あの熱気も地面と植物の間ではおとなしい。しかし公園の中は曲がった道路ばかりですぐに自分を見うしなう。土の道も魅力的だがタイヤのことを考えると舗装道をゆく。アスファルトの黒さ、しかしよく見ればぼこぼこに昔はもっと近しかったのになとか思う。陽が沈んでも熱がなかなか冷めないのにずっと座っていたような気がする。

騙しだまし目的地まで近づいて、何度か来た道をそういえば「こっちの方が近いよ」じゃなくて「こっちの道の方が好きなんだよね」って言ってくれれば納得したのになとか思う。たぶんそのふたつの距離はほぼ同じなんじゃないかな。って思うのだけど、「こっちが正しい」ってがんと言われたら、あ、この人ニガテってなってしまう、繊細過ぎるかもしれないけれど。

Aには「つかれた顔をしてるんじゃない」といわれて、久しぶりに会うOは笑ってよく動いて、生命力って感じだった。夏が似合うなぁとかうらやましく思って、抱擁して泣きそうになる。