紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


諸行無常とはこのこと

入口前にトラックがつけられていて、ぶかぶかのズボンを穿いた人たちが何人か行ったり来たりしていた。すんません、とか挨拶されても親しみは感じられなかった。階段をあがって部屋に入ろうとしたところで大惨事、運び出されるために横倒しになった家具が玄関を塞いでいる。木くずや埃がところどころに散らばっていてマスクをひきあげる。なんの思い入れもない手によって家がめためたにされる。クローゼットから衣類が消え、棚から本が消えたところでもうわたしの知っている場所ではなかったのだけど、それにトドメだ。いやいやそれよりひどいでしょ。無残無残。なにもかもが部屋を空っぽにするための障害物であり、男たちは主役、ヒーローとなって目的を遂行していた。物が物になるところをみた。正当にあつかわれないそれは死体と化し、わたし達を暗い気持ちにさせた。部屋って物だったのだ。あるじのいないベッドに腰かけながら。

そうして部屋なのか物なのか判別がつかなくなった頃にはもういいような気がして土足で上がってしまう。内部が外部になった? 外側が内側に流れ込んだ? 宇宙だ。隅にゴミ袋をひろげて座っているのもなんだか本当にちっさいなという感じがして。土足のくせにせっせと箒で掃いたり掃除機かけたりするわたし達。なにもなくなった部屋は思ったより広いでしょうといわれたけど、ただ空っぽなだけで、うまくいえないけれど物とか人があることでコスモ的な広がりを持つのでは、というような。気が。

買い物考(序)

久しぶりに買い物しようと街まで出かけたのだけど、ものを買うのってむずかしくない? 目的の品は買えた。目的のはずなのに店員の手前品定めしてるふりしちゃうのやめたい。けどやめられない。近いうちの購入を検討していたものが見つかると今買うべきなのかまたにすべきか迷う。今回は買いづらいディスプレイかつ店員がいなかったからやめた。ほとんど衝動買いのような好みのもの、見つけた時点でほぼ入手が決まってしまう。これを我慢できるかできないかで人は大きく二分されるのではないか。わたしは一期一会を信じる。それも縁。ふだんの買い置きがまだあるけどせっかくここまで来たんだから買っていこうかなもむずかしく、わたしは"せっかくだから"が強くて買ってしまいがちだ。ここを鷹揚にやれる人を尊敬する。
何かのついで、がわりと好きで日に何件も用事を入れてしまいがちで、くらべると同居人は目的のみを完遂しそれ以外をすることはほとんどない。そう考えるとわたしは心配性なのかもしれないな。でもそのおかげで買い置きがきれて不本意に出かけることがないのだからよいのでは? いやいや、ちょっとくらい在庫がなくったって一日ふつかは生きられるのでは? とか。ものを買う/買わない問題はものを持つ/持たない問題とまあまあ関連しているようで、一年くらいかけて考えていきそうな感じがある。