紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


慣れてないだけ

5月もあと一週間になってしまった。職場は三か月閉鎖され、この二か月は緊急事態宣言で出勤がまばらになった。六月からおそるおそる日常に戻ろうとしている。でも、その "戻った" 日常って以前と同じわけないよねえ、という気持ちである(そもそも変わらない日常、なんて "普通" と同じ幻想ですねえ)。日常は戻るものでなく、変わり続けるもので、いつも新しくなっている。すごく乱暴にいってみると、すべて違う日、なのかも。かもね(少し前の日記では「毎日は同じ顔」みたいなこと思ってたのにね!)。

今年も2月くらいに味噌を仕込んでいて、今もかもし(かもされ)中なのだけど(先日様子見ついでに嘗めてみたらもう味噌の味がしましたが)、そのことが急に盛り上がってきて、「この部屋(キッチン)の隅で仕込んだ味噌が息づいていることのなんて豊かなことか」と語りかけてしまい、はいはいとあしらわれた。感情の振れ幅に驚くことがある。次はまた梅酒を漬けたいところです。

片づけをしているのだけど––これをいうと、あなたの部屋は片付いていたことがないよね、と言われてしまう––すぐに手が止まってしまう。何をどうしたらいいのか全然思いつかないんだった。散らかっていることはわかるんだけど、これをどうすればいいのかな。全部棄てていいなら棄てるけど、という雑な気持ちにもなる。持ち物を持つ(持ちはじめる)こと(入口)と手放す(出口)があるけれど、その間のことを考える。それは一本道か迷路かお化け屋敷かわからないけれど、その内部を豊かにする、それを自分目線にするか、持ち物目線にするか迷うけど、ことが大事なんじゃないかしら。なんにせよ、物を持ってうっちゃっておくのは自分にも持ち物にも不幸な気もする(が、それも豊かな体験と言ってしまうこともできるのではないか???)。はい、そんなこと考えてないで手を動かしましょう(その手が動かないのだけど)。来週二度目のウェブ会談があるので、映せる壁をあけておきたいとは思っているのだけど。

インターネット通話が苦手だ、と思ったけどふつうの電話も苦手だった。目的のない社交ができない。いやできないわけもないのだけど。そんなことを友人とメッセージのやりとりをしていたら、「慣れてないだけだよ!」と言ってくれたので、社交辞令かもしれないけど単純にうれしかったですね。そうですね、慣れてないだけですね。