紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


かさぶた

その人の恋が終わりそうなことについて、もうほんとうに、しょうがないよねというしかないのだけど。いちおう、はじまりから聞いていて、盛り上がるところとか、相手の素敵なところとか、たくさん知っているから、あなたが教えてくれたからだけど、もう一回考えてみませんか? と言いたくなってしまう。でもきっと、のろけの背後で諍いやらどうしても合わないところとかがあって、それをわたしは知らないからそう思ってしまうんでしょうね。たぶん引き返せた地点はいくつかあって、でもそこを我慢してぎりぎりまできて、爆発しそうになっていて、修復は不可能なのではないか。余裕があるうちに、対処しておけたらよかったなぁ、とぼんやり思った。

たぶん。難しい問題をいくつかふくんでいるのだけど、けっきょくはやり方とかタイミングが重要だったのではないか。余力がなければどんな論理も霞んでしまう。

傷ができたとき、へんに触ると膿んでしまって回復が遅くなる。傷口はそっとしておくことだ。かさぶたができて、いつか綺麗に治ってしまう。

人様、というのはとても難しい。わたしはどうしても、人様の思考をたどることができない。話をきいて、感応することはできるのだけど、そうねそうねしょうがないねと、水を流すように、お茶漬けみたいに、サラサラーって。サラサラー! つって。意見とか問題提起とかをすることができない。あとで家に帰って、「こう言えばよかった!」って思うのだ。思うのがワンテンポ遅いのだ。

それと同じように自分の話をして他人にわかってもらえるとも思えない。人にはいろいろな前提があって、それから切り離された議論って、一般論って意味があるんだろうか。どこまでいっても個人の枠を出られない(それをどうかしたらいいのかもよくわからない)。だから日記を書いてるともいえる。のかもしれない。

と、ここまで書いて、けっきょくのいつものふにゃふにゃで終わるんかい! って思いながら、しかし、「余力がとか言ってられない、それでもたたかうぞ!」って人がいるんだよねと考え至る(それはそれで止めないよ)。わたしは余裕が必要派で、その人はそんなの関係ない派。両者が議論しても、そもそもの前提が違うから、食い違って食い違って疲弊するだけなんだろうな。

「余裕が必要よね」もまあひとつの意見ではある。でもこちらは「余裕があればなんとかなる」だから精神論だ。十全な環境があったとしてどうする? っていうのが完全に個人から切り離された議論になるのだろうな。意味あるのか疑問は残るけれど、理想の追究議論はしてみたいな(というかわたしの性格的にした方がよいと思う)。