紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


オリンピック(にまつわるあれこれ)、メルカリ、政治

いろいろ書いておきたいことがある。
ひとつずつ書いていけるだろうか。
(日記を)書くということから離れていると感じる。
このすぐに改行してるのは、最近はスマホのアプリに日記(できごと)を記録しているからだ。感情を書いて、誰も読まないということ。の気楽さがある。


少し前はこういうことがあった。自己啓発みたいなもの、マインドを嫌がるくせに、たまに擦り寄りに行って、もしかしたら自分が "ええもん" になれるような気がしちゃうの、思うツボって感じがする。それこそがその本丸なのだから。
べつに手帳になにを書いたって自然にかなうわけなくて、書いたことにより、自分が動くのだ。それを引き寄せととらえるか、宣言による自己催眠(みたいなものでしょう?)ととらえるか。でも、魔法を信じてみたくなることもあるのよ、なんて受動の姿勢。

 

オリンピック(にまつわるあれこれ)

今さらこの話題します?、と思わなくもないのだけど。そもそもオリンピックしないでくれ派だったのが、この感染症の状況下で本当にやめてくれ派となった。でも開催されてしまった。ヒェ…である。それで、なにが核かというと、やっぱり開会式直前のごたごたのことである。アーティストの過去の出来事について、それは確かにひどいよなぁと思うのだけど、この件について、その人が社会的業界的に抹殺といえるような仕打ちを受けたことに恐れをなしている。ひどいことをしたら報いをうけるべきか否かの考えはまあ人それぞれとしかいいようがないのだけど、それが公のひとであれば、なにかしらの声明を出しておいてくれよとは思うのだけど、ひどいことをした(らしい)人の作品や露出を封印すること、それは正しいのかもしれないけれど、だれか(わたし)がその作品および作者(をとおして自分自身)と向き合う機会を封殺してしまうことになって、それは違うんじゃないかと思った。その人がいることで悲しむ人や怒る人がいるかもしれないけど、喜んだり、救われたりする人もいるんだと思うのだ。こんな考えは浅はかだといわれてしまうかもしれないけれど、そう考えた。
あとまあ個人的にはわたしは賛成していないオリンピックだから、かかわってくれなくて(かかわってるけど)、かかわってないことになってよかったなーと思った。利己的。

 

メルカリ

アンタずっと片づけしてるな、でおなじみのわたくし(紙)ですが、メルカリ出品の効能について思いをはせてみる。
ひとつは、保留箱に入れるみたいなことで、出品しておいて、売れたら出す用によけておく。そうすると売れなくても数か月後に、まあいいかーとなって処分できる。
ふたつめは、単純明快。売れたら手ばなすしかない。
みっつめはややこしいのだけど、自分なりの善、みたいなことだ。うまくはいえないけれど、自分が善いと思っていることを社会にひらいていく、というような。善さの表面積をふやしているような感覚で、よろしくなさそうなものはどんどんその勢力を広げていきがちなこの世なのでそれに対抗するきもち。だから、すばやく売りたいわけではなく、ある程度の時間、それを開陳しておきたいのだった。なので、最初はちょっと高めに値付けをしている(でも売れるときは売れてしまいます)。そんなこだわりをしてるから片づかないんだよねと思います。でも昔よりはちゃんと生活に前向きです。

 

政治

政治ねーというきもち。社会的な政治(政治家とか国会とかそんなの)もだけど、身近な(職場の)人についても、政治をしていると感じることが格段に増えた。わたしのセンサーがチューニングされてきているのかもだけど。今の職場の歴が深くなってきたともいえるかもしれないけれど。でもその政治ってけっきょく、元をたどれば個人の感情だったり、前例慣習しがらみでは、と感じることが多い。えらそうにいってるけどおじさんや過去のおじさんの感情をそのまま正当化しないでくれと思うことしきり。ということで、だいぶおじさん的なものにいきどおりを感じていることが多いです。ちなみにここでいう「おじさん」は概念みたいなものなので、女性が「おじさん」であることもあります。とかいったら、クレームが入りそうでもありますね(おじさんから)。

 

すんすん

亡くなった人は手広くやっていて、とにかくわたしたちをつなげ、いろいろなことに巻き込んでいった。

とはいえ、その強引さと無鉄砲さに辟易して、なんとなくつかず離れずになる人も多かっただろう。からっとしていたから、連絡がなくても一年後にふっとメールがきてやりとりしてしまう。そういうことができるのだった。

それにかんして誰が内で外なのかよくわからなくなっているのだけれど、家族なのか、その人が心血をそそいでいた活動なのか、職場なのか、それとももっと昔の仲間たちなのか、わたしはそのいくつかを知っていて(そもそもごちゃまぜにする人だったのだが)、内なのだろうけど、意識としてはもう少し外側にいて、どう気を遣えばいいか置き去りになっていた(子どもじゃないんだから自分で決めなさいと思いもするが)。もろもろの都合でかかってきた久しぶりの連絡にかけ直してみれば事務的なやつで、特に深い話をすることもなくやりとりは終わった。声はやっぱ元気なかったよな。わたしが知っていたのが、かぞえたら10年弱で、でもその人は子どものころからだから30年くらいのつきあいなんじゃないかな。そう考えると、事務的だったなんて切り捨てること、できない、よな。

そんな気持ちをかかえてもなにくわぬ顔で仕事とかはしているわけ。精神が不安定になるなんてことはなくて、でもふとした時間に、あの人いないんだなぁってすぐに考えてしまう。いやはや無力。それで、よくわからないなんとか委員会の人がやってきて、お話ききたいですのやつの白羽の矢が立ってしまって、歯を食いしばりながら謎の会に同席して、むにゃむにゃとよくわからんことを口にしていた。むずかしいことを口でいっても、すぐにわかんなくなっちゃうから文章でやりとりしたいなぁとたくさん思った。

音声になると言葉の意味はうすくなり、声とかトーンとか言い方とか仕草でわかったようなわからないような感じになる気がした。なに言ってんだってわかんない質問もぐいとハンドルを切って自分の好きな話をしちゃうこともできるんだよ。そして誰もそれを注意しない。という地点にいたっては、この時間無駄じゃんねという気持ちになってしまうので、なにとぞ文章でよろしくお願いいたします。と申し上げておきたいですね。