紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


考えたリスる。

電車に乗って、やったー座れたー(①諏訪レター、②吸われたーが出てからの③座れたーなのでこの変換を大事にしていきましょう)のだけど目の前に立った女性が ”baby in お腹” のハートマークを下げし者だったのであわてて立った。隣に座っていた男性も立った。2席あいた。っていうかさっきから変換が経っただの2隻だのになってなんなのか。教育の必要がある。Windowsの誤変換を送信しますかって毎回聴いてくるやつ、怒りをあいつにぶつけたい。送信しなくていいから賢くなってくれ!!!

ドラマの『凪のお暇』を毎週楽しみにしていたのだけど、どうにもひとりで観るのがつらかったため、同居人を誘っていたら最終回のちに「いつもキレながら観てたよね」といわれてしまった。そう、わたしは慎二にもゴンさんにもキレていた。腹が立つ、ゆるせん、と思いつつ、高橋一生にときめく気持ちがあり、中村倫也さんのぼんやりしてる演技の空白を好ましく思っていたのだった。漫画の無料部分のみ事前に読んでいて「なんだ少女漫画」と捨て置いていたのが、ドラマをみていると全員(主人公だけでなく関わる人々の多くが)変わっていく話なのだと気づき、めっちゃいい……となった(でもキレてた)。遅ればせながら漫画も読んだ。しかし、空気を読むこと、読んで合わせることはめちゃくちゃ能力高いよなと思ったりして、でもなんでか、それが自信になる人と自信喪失してしまう人がいるんだろうと思った。たぶん前者は全体に合わせられていることを良しと考えていて、後者は自分が踏みにじられている(踏みにじっているのは自身)ということを強く感じてしまうんじゃないだろうか。なー。空気、読んでも読まんでも、吸っても、めちゃめちゃにしても、なんでもよくて、その受け止め方という気がした。漫画版は(ドラマは終わっちゃったので)そこをどう整理してくのだろうと楽しみに思っている。

あと、キングオブコントも観て、うるとらブギーズが躍進でしょう、ひとり勝ちでしょうとすら思っている(詳しくないのですみませんが)。あいかわらずジャルジャルが好きなんだけど。M-1のときも思ったのだけど、コントにも古い/新しいがあり、日々進歩してる(しなかったりも)んだなぁと思った。挑戦しているものが好きだ。どぶろっくが優勝したのも、まあ一番うけてたしな、とは思うのだけど、小学生が喜ぶ笑いが優勝してしまうの、進歩に逆らってない? 大丈夫? という感じはする。ただ、ネタの2本とも同じ味のものだけど、2本目は方向が逆になってたでしょう(神→男が男→神に)、それは興味深い気がするのだけどどうなのでしょう。

電車で音楽を聴いていたら急に女の人の顔が近くにあってびっくりしたが、さっきの席を譲った人だった。お礼を言われた(んだと思う)。ひたすら驚いた顔をしてしまった。彼女はその駅で降りていった。いやもう健やかに。お子も健やかに。って思った。言えなかったけど言ってもちょっと変だしな。妊婦さんも子ども連れもお坊ちゃんお嬢ちゃんも怪我してる人もご高齢の人も、わたしの方が立つべきだと思ったら席を譲るから。でもなんか「座りたい」空気出していてほしい。席を譲るのは反射みたいなところがあり、「譲ろうかな?」の1秒後には立っていないときびしい。それ以上見つめてしまったり考えてしまうと譲れなくなってしまう。そして、わたしはいつまで席を譲る側なんだろうということも考えたりする。

お味噌の気持ちで

九月。なんだったんだと思っている(まだあるけど)。

すべての週末に出かける予定と異なる締切仕事がはさまっていた。久しぶりに夜更かしもした。でもなんだか乗り切ってしまってあんまりよくない体験である。最後の週末も出かける予定が入った。入っちゃった。今やわたしは土日休みの仕事ではないのにめちゃくちゃアクロバティックに動いている(半休がとりやすいのでとりまくろうとしてるけど、そのうち目をつけられて怒られるかもしれない)。乗り切った。乗り切っている。乗り切れてしまっている。どうしたら平穏に過ごせるんだろうか。

自分についての評価が一定していなくて、みんなそんなものなのかもしれないけど、能力はある(気がする)けどうまくいかない、という状態を常と思っていて、でもなんだか現状の仕事ではすげーちゃんとやれてる、ちゃんとやれてなくても笑顔とコミュニケーションで乗り切ってる、乗り切れてる自分がいる。のがむずがゆい。わたしの能力ってなんなんだと思ったときに、、テストは平均点以上とれる(気がする)、でも努力はしていないから天才秀才にはかなわない、持続する体力がない、野生の "できる子"(自分でいうか)なので、褒められてもわたしは自分がこわい。でも褒められたい。褒められてないと力が出ない気がする。そしていつだって余力の範囲でやっているから、いつか実力以上のことにぶちあたったときがこわい、怯えながらやっている。意外とそのときはこないのかもしれない、社会ってそういう感じなのかもしれないけど、やっぱそろそろ危ない気がしている。

そんな中、前述の無理してねじこんでる予定の会で文章など読んだりして、自分がまったく上手に言語化できていない状況に少しホッとしたりしている。思ってること、感じてることがうまくあらわせない。ほかのひとはあんなに見事にしゃべっている、ああこういうふうに言ってみてもいいんだ、なんて完全にお味噌の気持ちでたぶん誰にも ”できる子” と思われないでむにゃむにゃと話をきいてもらっていて、それがすごく楽だったりした。そういえば冬に味噌をしこんだんだけど、あれっていつになったら食べていいんだろう。そっちの味噌の気持ちも知りたいよ。