紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


資本主義はきっと恋愛よりも難しいのね

エアコンをつけなくても眠れるのなんていつぶりだと驚く。太陽は優しそうな雲にもんやり包まれていて灰色と銀色の世界。洗濯ものもやわらかく乾いている。もう秋だねと思うもまだ七月だった。夏のターンはまだまだあって。

さすがにものを整理しなくてはと思ってメルカリをはじめた。努力の方向違ってない? と思わなくもないけどメルカリ。ばんばん売れるわけではないけど(コツもあろうが)、持ち物をリスト化してなにがしかのコメント、その前の選別作業でなかなか気持ちが整理されてよい。読んだ本やデータに取り込んだCD、本は「もう一度読みたい」とか思うわけだけど、音楽に関しては取り込んであればいつでも聴けるわけで、じゃあ全部手放したっていいわけで、って考えて、それでも手もとに残したいものの基準はなにかと考えたら「だれかに貸せるように」であった。新しい音楽はネットで聴けたりもするから古いものとかマイナーなもののうちで、この先だれか(自分の友人)に渡したくなるような音楽は残す、それは自分の紹介のようでもある。この基準でまだまだ残ってるけどまあまあ減った。

本にかんしては決着はついてないんだけど、好きな本・いい本であるからこそ、自分のところで死蔵させるのはもったいないと言いきかせて、手放していい方に振り分ける。といってもこちらはまだ全然手つかずである。メルカリで売れやすい本はおそらく実用書で、わたしの蔵書の多くとは傾向が違う。のでこれらは寄付行きになりそうな感じ。物をもたない暮らし方でよく言われるのは「図書館を利用せよ」だけど、図書館って意外と本がない。正確にいうと、わたしの読みたい本がない。わたしが読みたくて、みんなも読みたい本は借りられている可能性が高い。書店と同じで書架を歩き回って気になる本との出会いを楽しんだ方がいいんではないかと思った。けっきょく、ほしい本は買わなくてはいけないという気持ちは変わらない、というか強くなってしまった。

出版社や書店が厳しい昨今、本を立ち読みしたり古本屋(ブックオフとか)で買ったり図書館で借りたりすると、もとにお金が入らなくて悪い、みたいな話があり、そうするとメルカリで売るのも(売れないけど)、やっぱり著者に悪いのかなという気もする。なんていうか、本(音楽もかも)は記名性(記銘?)が高いというか、「誰か」のものという感じが強く、それが悪いなぁという感情につながりやすそう。

しかし最近好きな古本屋さんができたりして、そこで売り買いしなければそのお店もなくなってしまう。ブックオフ(は新古書店というそうですが)だって潰れればいいなんてわたしは思わない。三者? 四者? なかなかじり貧な印象。メルカリで出すときはできるだけ遊びましょうという気持ちで出している。それもなかなか体力がいるんだけど(売れないし)。お金も物も(人も?)空気をあてましょうまわしましょう、という感じ。遊びましょうの詳細は体力が続けばまた。

「読む」という行為

むずかしいことが書いてあったので一度読んだところを少し戻ってまた読んだ。わかるようなわからないような気がした。同じように、めちゃめちゃよいなぁと思って同じところをまた読むこともある。SNSでまわってくる漫画とか、毒にも薬にもならなくて腹が立つのもあるけど、おもしろいのははじめに戻ってまた読んだりする。読んでいるときに脳やらで起きた動きをまた味わいたいのだ。それは甘美なときもあるし怖気みたいなときもある。3文前に「めちゃめちゃよいなぁと思って」と書いたけど、それは実は「めちゃめちゃよい」と8文字で思ってるわけではなくて言葉にできない何かしらなのだ。そのへんの雰囲気をかき集めて「めちゃめちゃよい」の袋に入れる。最前の「むずかしいこと」の書いてあった本にもそのようなことが書いてあって、それが難しい。関連して小説とか詩とかの形式について考えている。同じ本を十年くらい前に読んだときにはまったく理解してなくて、ただそこに書いてあった文字にいちおう目を通した、くらいの読書で、「読書」とひとくちにいっても実はいろいろあるのだ。

小学校の国語には「音読」という宿題が必ずあって、教科書のどこか(学習している箇所)を声に出して何度か読まなければいけない。指定が5回ならそれ以上の何回読んだっていい。それを親(お家の人)に聴いてもらって、教科書のタイトルの右上に正の字を書いていく。毎日読むから正の字が増え続けていく。思い出すのは、ある日その課題が楽しかったのだか妙な義務感が出たのか忘れたけれど(両方なのかもしれない)、調子にのって何十回も読んだことがあり、三十回だったか五十回だったか、キリのいい数字が近くなると欲が出て、「★十回までやろう」とか思ったりして、親も迷惑だったろうと思うけれど、とにかくそのやりすぎた宿題に対して、同級の子に「嘘だろう」と言われたことがあり、悔しかったと思うのだけど、その義務感から生じた音読は形式をなぞったにすぎなくて、意味ないよねと今は思ったりする。

そもそも「音読」という宿題自体がふわっとしていていかんとも思うんだけど、「情景を感じながら」とか「内容を考えながら」とか言われていればそれなりに感情もこもるだろうけど、「音読」という行為には形式をなぞることしか含まれていないように思える。だから、小学生のわたしの宿題は間違っていなかった(はず)。でも、それでいいの、とも思う。形式(音声)と内容に関連性はない、しかしそこに連関のあることを想像しながら日々ことばをつかう。あ、これシニフィエシニフィアンの話なの? シニフィエシニフィアンの話も何度聞いても混乱するんだけど、対になる言葉っぽく見せてるけど、違くない? っていうのがなんかわたしの感覚ですね。これもまた十年くらいしたら意味がわかるようになってるかもね。昔わからなかったことが自然とわかるようになるの不思議だよね。概念が身体になじんでくるのかな。

あ、違う違う。一所懸命理解しようと一文字一文字読んだりするけど、自分がブログ書いてみると、一所懸命書いても雑に読まれたりするし、一所懸命読んでも書いてる方は「一所懸命になんて読まないでくれよ」とか思ってめちゃめちゃを書いてるときもあるし、彼我のテンションが完全に合うことはないよねみたいなことを書きたかったんでした。内容はそこ(文字)にはないのに、内容を求めて文字を文章を矯めつ眇めつしなくてはならない。矛盾の感じがある。コミュニケーションなんてそんなものかもしれないけれど。わたしは根がまじめだからまじめに読んじゃうけどね。まじめな分、肩すかしされると「……っ!!」てなるし、「いやいや、そんなはずはない」って思って深読みしちゃったりするからね。なんてね。なーんてね。