紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


少しだけ

ここしばらく、しにそう、と思いながら生きている。死、でもまだそれは観念でもてあそべるレヴェルだから、という言い訳を付しながら。こんな気持ちで職場にいることがおかしく、ふと、ふと、生より死の方が近くなってしまった人(たち)のことを思ったりもする。生とともにあることにうたがいのない頃があり、それがどんどん(だんだん?)剥がれていく時期があり、どちらも等価値になってしまったら、そちら側の方が楽なのではと思ったら、そうなってしまうこと、あるような気がする。わかったようなことを、と思われたら本当にそうなんだけど。瞬間瞬間を生きていて、それを均して生なんだったら、瞬間の振れ幅で、間違いみたいな一瞬で、いなくなってしまうこと、あるような。ブログだって、振れ幅の極地みたいなものがやんやされるような気もするし。巨視的な人生と微視的な人生を両方持つこと、むずかしい。え、みんな、どうやって生きてんの? って少し思ったりもする。ずっと頭がぼんやりしている。たぶん、仕事から離れれば治るんだけど。しかしやめたあとの不安もすごい。社会を内面化しすぎている。楽しいことでうめたい。ブログも億劫なんだけど、書いていたいという気持ちもある。綺麗ごとばかりに寄ってっちゃうのは恥ずかしと思うんだけど、あの終わりの良さ、なんなんでしょう。教育の弊害だ。微分積分の意味(数学的な手法はまた別として)理解してなくて、微分するような文章、ってわたしが感じている状態は"微分"ではないらしいのだけど、錯誤をそのままにして文章を続けてみると、微分はいくらでもできるけどキリがないから、レトリックが必要だ、って思うので、積分はレトリック、ってことにわたしの中でなっていますが、いいですか?

 

はじめから最後みたいなドラマをみたよ パトカーランプのぼんぼりぼんぼり

ブログ

お花のこと、はたまた花火のことを考えていた気がしたのに忘れてしまった。あんまり自分自分ってなるの、やめたい。のは、他人の手を借りるのが手っ取り早いみたいだ。それも嫌いな人じゃなくて好きな人に会うのがいい。けれど、気にしてるのは自分だけなのかもという疑念がわいてきて、いやだめはいだめ考えるのやめ!! って感じでシャットダウン使っていくのも大事かもしれない。ひとりずもうはよくない疲れてしまう。

自分のブログ、一番好きなのは自分っていう自信がある。記事は書いた直後からずっと好きなのと、一晩経ってしまったなんてことを書いたんだというのと普通なのがあって、さらに書いたことをおぼえてるのと忘れてしまってるのがあって、忘れてしまったのをまた見つけると大体びっくりする。このびっくりにはすごいぞだったり何言ってんだだったりいくつかあるけど、気持ちが動くという点で感動とまとめてしまいたい。忘れてしまっているものとの再会の場合、しまったなんてこと書いたんだ記事も、というかそれこそ、感動的な出会いである。前世からの約束めいた、だって核心をついているんだもの、気持ちの中心を打ち抜くのだ。ヒュー。なんて書いてみたけれど、これは今適当に書きました。五割くらいで見てほしい。今日のわたしの適当さはするどい。

なんか、ブログ、好きなんだね、って思いました。これは、ちょっと、いよいよ、ですね。でも、好きですよね、ブログ。いい時代だ。