異邦人
料理って名前がないものが多いんじゃないかな
と思えば、平野レミが適当に料理名をつけていて笑う
なまえ、つけたもの勝ちという感じがする
生活の、やっぱり人生の(両方ともLIFEですからね)、感度ってだんだん落ちていくものなのだと思う
その人は退職のときの会を生前葬形式でやりたいといった
「ワタシは斜め読みできる報告書が好きなのよ!」
「長い長い!!」
今からだって毎日お経をきかせてほしい
葬儀はやる人にぜんぶ任せるといわれたけど、この人のことなにも知らない
「趣味ねつ造OK」
想像がまこととなったが現実はとまらぬ
★
かなしみという言葉、語彙としては煮詰め不足、改善の余地あり、ヴァージョンのアップデートがのぞまれる。言葉って汎用品で、精度も甘々なの(それでいいの)かもしれない。しょうがないから自分で歩いていって該当するものを見つけてくるの旅。ここに来て新たな発見をしたところで、満足するのは自分だけかもしれない。
なんていったところで、わたしは無関係
のような顔をしている
ちょっとふり向いてみただけの
しんでしまうとはなにごとだ
生きてるもののことも死んでしまったもののことも同じように話したい。赤ん坊がうまれたことをよろこんだ次の瞬間に病床のあなたのことをいたわりたい。もういない人のことをなつかしむ口ぶりで隣人の頬をなでたい。わたしたちは等しくいずれいなくなる存在で、等しくうまれてきた存在で、うまれる前が等しくあったのだから。
うまれるのはさみしくない。しんじゃうのもさみしくない。生きていくのもさみしくない。
なにか贈りたく思いますが、うまれたときにその掌に何もかもお持ちだともききますし、必要なものなんてないのかもしれません。
たくさん泣くでしょう。たくさん笑うでしょう。泣くことも笑うこともひとしく祝福されることですね。わたしが泣いていても笑ってくださいね。みんなで泣いちゃうのはやめましょう。いえ、やっぱり許可します。
しんでしまうとはなにごとだ、はつまり、生きているってハッピー、ってこと。ふっかつは実はまたうまれなおしているのかもしれない。彼岸と此岸の反復横跳び。 高速で。