紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


文章と時間と馬

いつもの身辺雑記的なものはさらさらと書いてしまって、もう一個のブログの方は記録というかくらべれば論理的にというか文章のつながりとか段落のまとまりとかを意識している(つもりな)のだけど、基本的に頭から書いている文章の中途でこれを入れ忘れたぞとか思ってもそれをどこにいれたらいいのかわからない。ひとつひとつの文章が長くて文意がぐにゃぐにゃなのもあるし。その文をどうにか押し込んだところで、次の文章へのつながりが変で段落としても複数のことを言いおっておりゃ! って感じになって頭がいたくなる。それまでの文章の時間を無視してるからだろうなと思い、文章も時間を持って生きておるのだということを感じる。すると、「書きたいことを箇条書きにしておいてあらかじめ書く順番も決めておくのだよ」という文章作成のhow-toが正しいのかといえばそれはただ死体をつなぎ合わせているだけだという感覚があり、文章に息をさせながらいっしょに生きるしかないように思う。箇条書き法はbetterかもしれないけれど、書いているうちに話はそれるし、それた話は帰ってこないしなかなか難しいのであった。文章作成術を使いこなしている人は馬の調教師みたいに文章を上手に繰っているのかもなぁ、ああでもわたしは暴れ馬に乗っていたいのだよ、、と思ってしまうのは怠慢ですか甘えですか向上心がありませんか。なんていうこの文章はやはり頭から書いていて、文章とともに生きるのはすがすがしい。

 

無重力足場

その人のこと、急に目にしてドキンとする。最近見かけないけど息しているんだろうか。なんてね。たぶん元気ではあるのだろう。思考の堂々巡りに入って鬱々としているとしても"元気"といっていいのだろうか。

影響の届く範囲というのがあって、あまりに遠いと噂話しか耳に入ってこない。逆に近すぎると顔も見えずにその呼吸の音しか確認できないようだ。ちょうどいい距離ってやっぱり友人くらいで、そうすると会話ができるし、遠くに投げようとしているもののこともきけるし、生きているのだということもよくわかる。

友達になりたかった人がいて、そのときのわたしの立場からすれば、それすらも一足飛びの特別なことなのだったけど、ひとりは遠くへいってしまった(とはいえ、それまでと一緒だ)。そして、もうひとりは近すぎるのかもしれない、と思ったときに自分の立ち位置を、足元を考えてしまってどうしようもなくなる。考えてはいけない。が、それに目をつむってはなにも進まないのだった。という点でここ数年はなにも動いていないし変わっていないのだった。

いやいやそんなことはないのだけれど、確実に邪魔しているものがあって、しかし邪魔とはあんまり思っていなかったりして。よりどころにするものがなさすぎて、宙をかく足もまあしょうがないなとか思ってたりするわたしにつける薬はなさそうだった。