紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


oh なんてヒューマン

毎日が同じで繰り返していて今月も十日が過ぎ、あと少ししたら残り十日になり六月になってしまうのだろう。昨日と同じふりした今日がやってきて、明日も同じことをする。わたし(達)をからかっているのだ。そんなもんに楔を打ち込むためにあれやこれややってみるのだけど、なかなかうまくいかないのだった。

お金をかせぐよりつかう方が簡単だなぁと思うのだけど、久しぶりに街に出かけると素敵なものがたくさんあって嬉しくなって、いろいろ欲しくなってしまうのだけど、よくよく考えると「それを持っている自分」が欲しいという慾望なのであった。本屋の棚をながめていると、鏡の前でかわいい服をあててみると、雑貨屋で家具の大きさをメモしてみると、素敵なキッチンツール、おいしそうな食べ物エトセトラエトセトラ! 買い物の街で"わたし"はふくれ、いいものになった、もしくはなれる気がする。その証拠になにかひとつ、または複数を選んで家に持ち帰る(買います)。部屋にはそれらの果てが積まれていて、輝いていたものたちも置物となり、わたしはまた同じ顔の日々をやり過ごす。このありようがいいのか悪いのかよくわかっていなくて、街で想像していた自分がうそであるとは思えなくて(思いたくないのかもしれない)、でもやっぱり積みあがったものを見ると溜息が出てしまう。それでも少しずつ動いているものもあるのだからという気もする。なんだかんだ目の前にあるものを追い求めてしまうくせがあって、数年とか数十年のスパンで考えるのができなくて、もしかしたら怖いのかもだけど(だって今が一番若いのだから)。そういう人はやっぱり"一点集中"がいいのかな。選択と集中だよワトソンくん。なんとなく満遍なくすべてを進めていくスタイルはわかられにくい時代なのかもしれない覚悟はできてる? できてない。唐突にミスチルにつなげて終わりにする。おやすみなさい。

劇中劇、人生中人生

発端をきいたら誰々さんの口が軽かったこと、だったのでままありそうと思って拍子抜けしたんだけどそれが今回の件につながってるんだから、些細なことだけど、口は禍のもと、なのだった。厳密にいえば口が軽いことに代表される種々の至らなさがあるように思うけれど。この世のアクシデントの九割は一割の特定のメンバーの所業なのじゃないかという自説ともかかわってくる。

口が軽いとか堅いとか、要は秘密を守れるか、ものごとを発表するにあたって適切なタイミングを選べるか、ということ、実際どうかは置いといても、「口が堅い人」って思われていた方が得なので正解なんだろうなぁと思う(口が軽いの反対、堅いなのおもしろいですね!)。

話が転がるけれど、実際どうかということより、他者からの判断の方が肝要なの、倒錯してるとも思うし、でもそれが世の中という気もする。実際に意味がないから、ほかに意味を求めている気もするし、一方で物語の強さや正当性を信じている気分もある。

さてそれでこの話、相変わらずわたしはひたすら傍観者で今後物語に参加する予定もないので、やいのやいのにやにやしながら眺めているだけになる。そんな実在の劇を見て好き勝手いっていればいいのが現実で、お芝居を観てガツンと自分を生活を人生をなぐられた気持ちになるのがフィクションで、やっぱり倒錯しているのであった。