紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


性格悪の知

大雨が去った翌日はまったき春で手のひら返しすぎじゃない? 雨の中帰る前に出した書類のことを考えながら。飛び越えたら変わってしまうことっていくらもあって(心理的なものも多いけれど)、これを出した以前以後の変化に緊張するけれど、それは無用な萎縮だなにを怖がっているんだ結論を先送りにして自分を安寧に置きたいのかそれが事態をますます悪くするんだぞととなえた。本当にそんなに緊張することはないんだ。自分でかけた呪いだ。荒波越えていけ、とか思う。良い変化は、それを越えることへの恐怖はないんじゃないかと感じる。いやもうなに言ってるかわからないね。そうそのよき日に、用事の前にコーヒーを飲みに行って、新しい豆を買ったりして、ふんふふんと自転車に乗って、角を曲がったところで自転車に乗った男性の(ブレーキをかけたんだか曲がろうとしてたんだかともかく)不興をかったらしく、すれ違いざまにののしられたんだけど! 二文字! のばし棒をいれても三文字! それらの意味が頭の中で実を結んだときにはすれ違い終わっていたし、いやしかしこんな晴れたよい日にぷりぷり怒っている人に損なわれないだけの元気がわたしに備わっていて助かった。春の日よサンキュー。みたいな気持ちになって、しかしどんなに気候が良くてもむしゃくしゃする日は確かにあって、そういう日は全世界を呪ってしまうからその人の気持ちもわからないでもないなぁと肩を持ちそうにもなる。自分の性格の悪さに自信があって、向かい合ったらわたしの方が何倍もひどいこと言えるからなとあとで思ったりした。無知の知ならぬ性格悪の知である。そのへんな自信のおかげで怒らないですんでいると、いい人なんだねと思われたりするから世の中ってフ・シ・ギ!

ことわざを疑う

アリとキリギリスのことをわりと考えるんだけど、わりとったって四六時中ではないけれど、たぶん一般の人よりは考えてると思う。あらためて説明するような話ではないよね、みんな知ってるよね。アリとキリギリス、そして夏と冬。もしこの話に教訓を見出すとしたら「コツコツ働いていれば厳しい冬も越せますよ(遊んでばかりいると冬は餓死しますよ)」なのかなと思っていたんだけど、そしたらそんな話は好きではないなということを考えている。それって脅しじゃないかしら。これは因果の話ではなくて、ルサンチマンの話なんだと思ってしまうのだ。

 

ボーイスカウトの引率、みたいなことを年に何度かするのだけど、子どもたちと一緒に野外でテントをはって暮らすのだ。何人かの班に分かれて団体行動をして、炊事などは基本的には協力してやるのだけど、やはり色々な子どもがあるもので手伝わずに食事にありつく人もでてくる。それが病気や怪我であればともかく、傍目に遊んでいるように見えてしまうと困った困った(というかまあ実際遊んでいるのだね)、「働かざるもの食うべからず」で動かされている子どもたちはそうでない子に厳しく、「遊んでるやつに飯はない」と本気で思ってしまうのだ。まあ気持ちはわかる。遊びたい気持ちもわかる。しかしそれを言われたときはぞっとしてしまった。病気になったとき働けなかったときに食べる飯がなかったら、次にがんばるエネルギーが得られず、働けず、そしてまた飯は得られず。よろしくないスパイラルの完成。キャー。

そして子どもは大人をよく見ている。下手なことをいうとそれがブーメランとなって自分または別の子どもに刺さっていく。「働かざるもの食うべからず」は言わないぞ。なんか上手いおだて方を考えよう。それで、みんなを自分を甘やかしていきたいなぁと思うのであった。いやいや、自分が甘やかされたいのであった。