紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


今が最悪

今が一番悪いと感じていたものが次々に更新されて、やっぱり"今"が最悪なんだって思ったの、そしてそれはおそらく今この瞬間も書き換えられているんだ。とはいえ、わたしはその最悪が嫌でそこを離れたので、遠くから見る分には「いっても少しはよくなってるでしょ」とか思っていて、もしかしたらそれは真意でない軽口だったかもしれないけど、ふふ、最悪を更新し続けている。ブラックホール。太陽級の惑星が寿命を終えてブラックホールになって周囲のものを吸い込み続けるってむかし赤塚不二夫の絵の漫画で読んでそれを信じているんだけど最新の研究ではどうなのかな。ホワイトホールは存在しない、らしい、というのはきいたんだけど。赤塚先生! もう一度漫画にしてください!!!

そうつまり、この件において大元の最悪はひとつで、それがブラックホール化して周囲を巻き込んでいる、巻き込み続けて大きくなっている。わたしはその元凶はいつかは収まる、もしくはほどほどのラインで留まるだろうと思っていたんだけど、ブラックホール化しているということは、もうその大元は死んでいるのでは??? とか思ってしまう。

自分が、または周囲が"善"であることが有効にはたらかないこと、ものごとには限度があるのだ。ブラックホールの吸引力はすごい。ダイソンよりすごい。そしたらそれまで"善"であった人たちもばからしくなって、破壊する方に加担してしまうかもね。

エントロピーって一般的には大きくなるものだよなと考えていて、でもその一方でたとえば油と水のまざった液体が、川の流れが運ぶ石や砂が、いつしか順序立てて並んで落ち着くべきところに落ち着く傾向って矛盾しないのかしら。べつの事項に作用するのかしら。それとエネルギー保存の法則のことも考えていて、わたしはわりと忙しいのだ。

わたしのことだけだれもしらない

全員顔見知りなのではというくらいの小さな会場でのライヴが多い。今は机と椅子が出ているけれど、立ち見だったら80人くらいはいられるかしら。酸欠になりそう。ステージはほんのちょっと高いだけでだれでも乗り越えられて、いったら此岸と彼岸の物理的障壁は小さいがそこを越えるものはめったにいない。みんなおりこうさんだね。先ほどまで客席にいたヴォーカルが律儀に上手の扉から出てきて機材をセットしはじめた。これが噂のリッケンバッカー

有名でないこと、バンド名が一般名詞かつ同じ名前の名所があるがため(そこからとったんだろうけど)、くわえて本人たちの意識の低さによってかインターネット上にきわめて情報の見つからない(まるっきりない、のかも)バンドをみる。わたしがなんでそこにいるのかといえば、ヴォーカルがセンセーだから、ということに尽きる。対バンももちろん同程度の知名度か、しかし検索すれば情報は出るのかもしれないし、オンリーワンの個性を願ったのかもしれないバンド名だったりした。

演者の顔がわかるくらいのライヴばかりなので、千人くらいの会場にいくと驚く。ステージ上の数名をみるためにこんなに人があつまり、スタッフも物販も何十人と動いている。物理的にも経済的にも人を動かしている。これはもうイベントだよね。昔にドームツアー的なののチケットをとったこともあったけど、お金を払うはずのセブンイレブンで足がすくんでやめてしまった。何万人もでステージ上を動き回る点をみるのだ。でもその姿は大きな画面に映し出されるぞ。音楽だって最高のスピーカーががんがんに声を届けるんだぜっていうのはわかるけど、なんか魔法だなと思って一歩ひいてしまう。大勢をいい気持ちにさせるための魔法を想像するとわたしには過剰な気がしてしまうんだった。

そうそれで、わたしがみたバンドのみなさまはどれも上手でいらっしゃって、高校生のコピーバンドとは一線を画し、上手ならば有名になれるかというとたぶん違って(有名になりたいかどうかというのもあろうけれど)、続けてる人だけが続けられるみたいな言葉遊びを体現しつつ、そういえばドラマの『カルテット』の演奏はうまいのか問題みたいな話をオーケストラ経験者と話したときのことを思い出したりして(うまかったかどうかは最終回でえがかれましたが)、三十半ばすぎて妻子が客席にいたり、隠しきれない腹部の丸みを揺らしながら跳ねまわるなんて、十代のわたしには思いもつかないバンドマン像(ゾウ🐘の絵文字が変換で出たのでご報告申し上げますね)。やっぱり若い人って、若い。

 

一番目のバンドはなにかに似ていて、

二番目のバンドはそれをいなすような上の世代に似ていて、

その次のバンドはなににも似ていなかったけど、曲が全部自分たちの曲に似ていた

 

空気が熱くなってきたのでそのまま帰る。わたしのことだけ誰も知らない。