紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


失われた時を求めなくていいけど、ノストラダムス

自宅を出てから十年余りがすぎ、どうも実家に戻ることはなさそうで、元いた部屋は物置代わりにされ、最近では母が勉強部屋につかっているので、帰省の折に少しずつ物を片づけていたのが、この度の帰省でひと段落ついた。十代の、中高生のころのことを想い出そうとして、でもなんにもおぼえてなくて「記憶がない」としゃあしゃあ言っていたのが、その片づけをしていると思い出されて、あ、こんなことしてたわ、、という俗にいえば黒歴史的なことが山のように、でもやっぱり都会で暮らしていると忘れてしまっていて「記憶がない」、って。そのへんのものはたいがい処分して、その数年間の、しかもティーンの時代のものってものすごく密度が濃くて付随する感情も濃密で、でもそれをかたっぱしから否定して棄ててしまって、もうあとは服とか参考書とか悩まずに捨てたってよい物々で、わたしったら本当に過去がなくなってしまった。

あのころは、十代の思い込みみたいなものもあったけど、ノストラダムスの大予言というのがあって、1999年になったら全部終わってしまうのだというのを信じてるような信じていないようなうわついた時間を過ごし、でもその時を待っていたんだけど、けっきょく世界は終わらずにここまで来てしまった、いやもうその夢の倍以上の時間を生きてしまっていて、はっきりいって予定にない自分の生は、いやもう予定にないとか言っていられる以上の期間がはっきり言ったら過ぎているけど知らないふりをして、まあでもそれなりに楽しいよねという老境のまとめのようなゆるやかな肯定の中にある。

でも実は処分できないものがあって、学校の違う友人としていた手紙のやりとり、しかもお互い筆まめだったのかなかなかに続いて数十通はあるわたし宛の封書を捨てられずかといって置いておけず、手もとにあるけど恐ろしくて読めない。これをあけてしまったらわたしの失くしてしまった、無いことにしたあの時間がよみがえってしまうの。という問題を先送りにしている感じで、時限爆弾の一部が今ここに。そういえば、鍵をなくした鍵つき日記というのも早々に発見されて、持ってきてあって、それもあけるのが怖い一つであるね(あけられないし)。

やけになったりひらきなおったり、はたまたお弁当の効能

同居人の仕事が最近どうやら洒落にならないくらい忙しいらしく、残業のうえ疲れた顔で帰ってくる。睡眠時間はそれほど変わっていないのにクマがひどい(くまのクマぷぷぷぷ)。あんまりしゃべらなくなったしいつも不機嫌そうである。いつもと言っても、わたし達が一緒に過ごすのなんて今や日に一時間半程度である!(ヒエッ) ある日なんて三口くらいしかしゃべってないんじゃないかな。「お帰り」「おやすみなさい」「いってらっしゃい気をつけて」。あ、「昨日焼いたパンです」も追加して。

そんな日が続けばわたしも嫌な気持ちになってこの口内炎は誰のせいじゃいとかも思ったりして(夜更かしさせてるのはだーれー的な)、もにゃもにゃ思って寝てしまう。別れるときはお互い強気で別れるぞとも思った。戦意がすごい。しかし休日の前日は遅く帰っても多少は元気でごはんも食べてくれるし、隣でいびきをかいている朝にはやはりアリガトウとか思ってみるのであった。

 

弁当の効能

われわれはお弁当ファンクラブでその存在にぞっこんであったりする。弁当には単純においしいというだけにとどまらず(手前味噌!!)、栄養面、経済面等々さまざまな長所があるのであーる。

などといいながら、味(好み)・栄養(外食で野菜をとるのは大変ですよね)・経済(コンビニに行くと昼食以外も買ってしまう)以外での長所をあげますね。

まずは心理的効果。嫌だーはやく帰りたいーと思っている仕事中、晩のおかずをつめただけではあるが、いいえ、だからこそ! 弁当箱をひもとけば慣れ親しんだ食卓が広がるお手軽どこでもドア―、それは昼休みに広がる清涼剤、癒しなのであります。

というのがわたしの主張なのだけど、同居人と話していたところ、

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「物理的に助かる」と言われ(目がやばかった)、はて……となり、懐に入れていた弁当で命が助かった的なあれかと思いきや、「休憩が15分くらいしかとれないときに(外に買いにも行けないから)助かった」との意。それは時間的に助かったのではなどと思いながら、いやしかしこれだけの良いところがあるお弁当。朝の二十分でこれだけ満足できれば最高なのではという思い、是非伝えていきたいので、良い機会があれば出馬とかしていきたいですね。