紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


たらればの現在形

※まんがの話ではありませんぬ

 

たらればって基本的には過去にあるものなのだけど。過去のたらればにかんしては、現在を肯定しなさいというのが解だと思っているのだけど(どうしても無理であれば、反省の材料として未来に活かしなさい、を使います)。

そのたらればが現在進行形だった場合はどうだろう。人生は選択の連続で、こうしている今だってなんらかの選択の真っ最中だ。現在の選択が将来的にたらればする可能性だって大いにあるわけで。

今あるたらればで、ああすればよかったの瞬間に戻ったとして、たとえば「我慢すればよかった」等の受動的なやつだったらたぶんもう一度やり直せたとしても難しく、「なんらかの手段をとろう」的な能動してこうというのならばチャンスはあるのではないかと思った。

ひるがえれば現在形のたらればに対しては、「ここを我慢しよう」「私が耐えれば」的なのは、構造的な状況的なやつなのでさっさと逃げましょう、と思う。するのであれば、状況を変えるなんらかの手立て。というような。

どうしてもつまらない書き方になってしまうと少し悲しいのだけど、なにか読んだり出かけた先でそのたらればの過去形現在形を見てしまいそんなことを思った次第。なんかもっと切実な話のつもりだったのだけど。しかしできる大人はそんなこととっくに知っているのかもしれなかったね。

気分がよかった

ブログを読んで気分がいいぞと思ったのでブックマークした。なにかコメントをつけようか迷ったけれどやめた。ブックマークするときに任意でつけられるコメントは便利なようで厄介だ。わたしはできるだけ何か書こうと思っているが、それはだいたい未来の自分のために、もしくは現在の自分のために書きたいのだが、その記事の筆者がコメントがついたぞと思って見たときに、なんやわからんことが書いてあったらがっかりするのではないか、果ては怒ってくるのではないかと想像してしまうので、わたしと筆者の(または第三者の)落としどころを少しは想定してコメントする。前文で「少しは」と書いたのは、それでもわたしのコメントを見て、違和感をおぼえる人がいたときのための保険である。ここで、筆者が(または第三者が)そんな見方もあるのか、気づきをえたぞアリガトウゴザイマスという反応をすることを想像できない(想像しても肯定できない)のがわたしのネガティブであるところのゆえんである。それはやっぱり、生きづらいよなぁ、とわがことながら思うのであった。(本当にどうしようもないときは鍵付きブックマーク!)

最前のブログ記事を読んで気分がいいと思ったのは何故かよくわからなかった。内容がというのではなく、文章のグルーヴ感とでもいおうか。どこにもたどり着かないがとにかく山を登っている感じ(それも車で)がわたしのまだ寝ぼけた脳を揺らしたのかもしれない。読んでるこちらがポジティブなときにうけとめたものはポジティブになるのかもしれない。でもなんだかそう言ってしまうと、けっきょく人は人で自立しているだけみたいで寂しいので、作品の影響を受けるということにしたいな。なやましいな。