紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


みんなのテレビ

 

M-1というものをはじめて通しでみて、いえ、お笑いが嫌いというわけではなくてむしろ一時期好きすぎて気持ち悪くなってたこともあったし、しかし、いつしか演劇とかパフォーマンスの方が面白いんでないか(真実なんでないか)と思って疎遠になっていたんだった。(という点でジャルジャルは、「ただそこにあるもの」だったのがすごいと思った。もうひとひねりほしいというのもわからんでもないけど、あれ本当に少しの材料でその場にとどまって(足踏みしながら)いて、アートに近いと感じた(わたしはミニマルなものが好きなのかもしれない、いやしかしがちゃがちゃしているのも好きだ)。でも、普段していることとかから切り離せない文脈で審査員も視聴者も観てるんだろうとも思ったよ(そうすると一見さんに言えることはなくなっちゃうんだけど!)

 

積極的にお笑いを(もっといえばドラマもアニメもバラエティも)観なくなったのは、テレビがない時期があったからで、録画を観るにしてもDVDを観るにしても、「目的」があって、漫然とテレビをつけてザッピングをして、というやり方はテレビが復活してからもしなくなってしまった。たまにオンタイムでドラマなぞ観ていても、CMを飛ばしたくなってしまう。そのくらいテレビ視聴が目的的になってしまっている。

実家もある時期までテレビがなく、はじめてのテレビは学校にあがってからだった。チャンネルの割り振られた丸の中につまみがついていて、それをがちゃがちゃと回す。それすらどこかのお下がりだった気がする。それが今や実家に帰って驚くのはテレビの大きさ! それでも実家はいまだに一台のテレビでやりくりしているけれど、車や(携帯)電話、PCと同じく、テレビもひとり一台ある家も増えているんだろうなと思う。しらべたわけではない。が、そんな気がする(テキトー統計(ですらない))。(テレビですらなくて、PCとかタブレット端末とかで観ているのかもしれない。)まあともかく、テレビ視聴が家族単位でなく個人単位になった結果、「孤視聴化」がすすみ、われわれは分断されていく。と思いきや、それをつなぐのがインターネットなのだという気が強くしたのです。今回。(やっとここまできたぞ。)

つまり、くどく言いますと、以前はテレビは家単位、もっと昔だと集落単位の娯楽であり、同じ画面を観て騒いだり盛り上がったり泣いたりみたいな感情の共有、話題の共有がされていた。それを連帯感とよびたいわけではないのだけど、共同体の形成に一役かっていたんじゃないかと思う。しかし時代の流れ、「孤独のテレビ」で、個人が観たいものをみる、家族でも同じものを観ていないことが当たり前になる。そこで個人が抱いた感想感情が孤独化するかといえばそうでもなくて、インターネットがあるぢゃないかという現代。

それまでだってインターネットには掲示板的なものがあった。チャットとか(今もあるけど)。でもそれは、そこ(URL)まで行って書くという感じが強く、しかしSNSはその場(手もと)にいる。そこでつぶやく。と可視化される。のが、各人の部屋がそのまま拡張されて同じ茶の間を共有しているような気がした。前者との差別化があんまりだけど、しいて言うなら前者はハレで後者はケというか。というのがなんだか思ったことでした。良い悪いではなく、とにかく時代だなーという感じ。もっと積極的に投票とかで参加してればまた違ったものが見えたのかもしれない。そういう意味では体験は個人差があるのだけど、「みんなでテレビを観る」っていう体験をしたなーって思ったのだった。