読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


子どもの強さ

今日も知人の子どもと出かけた。まず図書館に行きたいと言われ、一緒についていった。好きな作家がいると、名前を三人あげられた。その名前を道中繰り返したが、検索機の前にいるころにはすっかり忘れていた。ひとりだけ覚えられていたのは自分と同じ名前だったため、辛うじて口にすることができた。

検索機はひらがなとカタカナと漢字とで出てくる結果が違った。うろ覚えの名前を子どもの指示でおそるおそる変換した。当然なのかもしれないが、漢字で検索したものが見つけたい情報に一番近くなった。そのようなことは一切書かれていなかったのでとても不親切だと思った。

お目当ての本にたどり着いてみると、それはよく見たことのある表紙の絵で、わたしが小学生のころもあったファンタジーのシリーズだった。お化けとか魔女が出てくるようなやつ。わたしの知らない長い期間の間にもひっそりと続いていて、もちろん今も現役で新作が出ているようだった。書架を見回すと、小学生だった自分が読んだ/読みたかった本があふれていた。その頃に思いをはせて、しかし今のわたしが読みたいものはひとつもないのだった。

通りしなに手塚治虫の『火の鳥』が並んでいるのが見えたので、今度行ったらチェックしようと心に誓った。

そのあとは近くの友人の家に行きたいと言われて一緒に歩いていたのだが、道がわからなくなり、「黒い車が目印で、家の前に自転車が止まっていて、屋根の色がどうで、小学校の裏!」というようなヒントでその家をさがすことになった。小学校の裏といったって、どっちから見て裏なのかわからず、小学校の周りにはグラウンドや体育館が広がっていて、そもそも周囲に家がないのだった。

もっとヒントをくれとお願いしたら、「家の中に靴がいっぱいある!」という、まったく役に立たないことを言われ、しかしそれがさも大事なことであるという風だったのに少し感動してしまったわたしはやる気が出て、小学校からはじめて歩き回ることにした。

小学生とはこんなに不確かなものだったかと訝る反面、しかしわたしも当時はふわふわ生きていて世の道理がわかってきたのは十代も終わりの頃だったような気がして(今でも怪しいし)、とりあえずこの子どもをスタンダードと考えてみようかなどと思ったし、やっぱりハタチになるくらいまではふわふわ夢みたいな世界で生きていてほしいとも考えた。

中学校の横も通ったのだが、そこでは体育祭が行なわれていて、校庭にわんさか人がいて、それはオトナもコドモも中学生たちもいて、ちょうど短距離走かなにかで、トラックを斜めに横切ったコースを数名ずつ走っていくのが見えた。よーいどんのピストルが鳴って、だれのものかわからない歓声がわーときこえ、とんでもない騒がしさだった。そのうるささと体操服の背中を見て、しかしわたしは中学生には(小学生にもだけど)絶対に戻りたくないなと思ってしまった。

なにがどうというわけではないけれど、思春期のあの渦の中に放りこまれるのは嫌だなと思ってしまう。本当に。子どもはわけもわからず強く、おとなは歳をとるごとにどんどん弱っていくような気がした。