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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


言葉は行動か

行動は言葉か、ではない。言葉は行動か、である。

かたる、はなす、いう、かく、つたえる、なんでもいいのだけど、これらは行動である。動詞である。これらは「言葉を」という目的語をとる。とれる。これらはしばしば、「言葉」と混同されるように思われる。つまり、「かたる、すなわち言葉」というように(この論理に飛躍はないだろうか)。しかし「言葉」は名詞である。動詞のように活用もしないし、柔軟性はない。続く単語にかつがれて表情を変える。

「言葉」は「行動」と同じレヴェルの単語である。「言行一致」などといったときには「言動」に対して「行動」が比較対象として並列されている。

そしてこれは、概念ではなく現実世界でのふるまいについてなのだが、「言行不一致」があった場合に、わたしは(多くの人は、かもしれない)「行動」を信用することにしている。つまり、話す言葉より実際の行動がその人の真意を語るのだ、というような(もしかしたら「その行動(=表出するところ)を信じなさい」という現実主義者からのアドヴァイスなのかもしれないが)。

しかし、「言う」(はなす、かく、つたえる等々)は「行動」である。ならばその「言う」(略)は信じられるべきなのではないだろうか。

たしかに、(文法のレヴェルでは)言葉は行動ではない。しかし、「言葉」にまつわる動詞はその他の動詞とくらべても特別な位置を占めるのではないか。「言う」と「言うこと(内容)」の差異を(確かに別物だという実感はあるのだが)どう判断し、処理するのだろうか。どうして「言葉」にまつわる動詞には、ほかの意味がこもる(もしくはわたし達は意味をこめたがる)のだろうか。なぜ言葉だけが特別になりうるのだろうか。単純に動詞だった「言う」(略)を「行動」と並ぶまでに昇華させるのはやはり「言葉」が特別だからなのだ、と思う。

生きていて実感としてわかってはいるのだけど、いざ考えてみるとわからなくなってしまうことばかりだ。前段、思考の迷路。

悲しい、としかいえないできごとがあって、しかしそれはわたし(達)が「悲しい」界のワードを掘ってこなかったのが原因で、本当はもっと繊細でしっくりくるような豊かな語があるのかもしれない。しかしとにかくそれは悲しい感じで、それについて意見を求められてわたしは困ってしまった。そういったことについてわたしは言葉をもたなかったのだ。

開き直ったら、わたしはわたしで、それにかんして言うべきことがないのはとても正直でなにも問題はないのだけど、一方で開き直ってしまうのは卑怯だと思った。わたしがわたしであると言い切ることが、相手が相手であると言い切ることを阻害するのだとしたら、それは正しいとは言いがたい。

些細なことでわれわれの紐帯(のようなもの)は切れてしまいそうになるし、わたしは切れてしまうならしょうがないという考えが根底にあるのだった。しょせん「合宿」のくらしであるし、そうとしか考えられないのがわたしはわたしである、のだけど、そこを言い切ってしまうのは非道いと思った。

相手に合わせることはできるし、これまでだってそうしてきたのだけど、それによってあんなみじめな気持ちになるのはもう御免で、それは相手にも同じことなのだった。言葉がほしい、と久しぶりに思っている。行動のともなった言葉を(そんなものはあるのだろうか、しかし、「言葉」は特別なのだから)。今まで一瞬たりともわたしの中になかったそんなものが出てくることはあるのだろうか。しかし、生まれてくれないと困る。のだ。