紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


"正しくない"の嵐

四月。あなたがいて、あなたがいない。そういう季節だから。新しいあなたはともかくとして、いなくなってしまったあなた、しかしだれかがいなくなってしまっても、世界はたいしてかわりはしない。そんな当たり前のことに感傷的になってしまうときは、地に這いつくばっている気分。こういうときに飛翔するために、ゆたかな知識やはぐくまれた人間性がものを言うのだろうけど、逆に自分にはそんなものはないということを思い知らされてホロホロ。わたしは弱い。台所の床はさぞかし冷たいだらう。このだらうはタイプミスだけど其の儘にしておく。ホロホロ。

職場にてえらい人が若い人に怒っていて、それは通常の業務連絡をしていたはずなのに、えらい人が急に不機嫌になったからホロッホー。わたしはえらい人のことがあまりすきでなく、断然若い人の方に肩入れしたいのだけど、それで、それはえらい人(以下、便宜上"木こり"とさせていただきますね(いつも木こりみたいな恰好をしているので))が若い人(同様に"山男"とさせていただきますね(山が好きな人なので))に思わずプライドを傷つけられたゆえの防衛反応で「おれ(木こり)はえらいんだぞ」というマウンティングじゃないかと思って、そんな理不尽な物言いをきく必要はないですよと心の中で山男の方を応援した。その後もなんとかやりすごし、木こりが去ったあと、労いの意をこめて、山男には飴ちゃんをあげた。山男はいつものようにはにかんでフルーツの飴を食べた。ホウホウ。

そしてここからは後になって考えたことだけど、理不尽でない物言い、この場合だったら、示威のからまないフラットな発言ということになろうか、議論をやりとりするための"正しい"姿勢からなされた言葉しかゆるされないというのは、なかなか困難だ。世間には(姿勢が)"正しくない"言説なんていくらもある。ホロッホー。そのひとつひとつを訪ねていって、「正しくないからきけません、やりなおし」なんて言ってまわっていたら身がいくつあっても足りない。ましてやこの場合は会社のえらい人が相手である。そんなことを言ったら一巻の終わりだ("正しくない"発言をする人に対して訂正しようとしたところできいてくれなさそうっていう構造の妙がありますね)。

どうしたらいいんだ。なんだかもう地道にじりじりとやっていくしかないんかなという感じがした。「正しくないからきかない」というのはつかえなくて、相手の発言からこの場合だったら示威をひいて、核となるものをあらためる。それを自分の中に入れるか否か。装飾品はごみばこへ。飾らないワタシ、だ。

くわえて、自分は弱者の側だとあぐらをかくんではなくて、自分もあちら側になってしまう可能性があるということを心して、そしてできたらそうならないようにする、とかそんなことしか思い浮かばず。あんまり納得いかないで、飴ちゃんをばりばりかみ砕くくらいしかできないのだった。懲りずにホロホロ。

先ほどからホロホロしてるのはフクロウでした。木こりも山男もフクロウも共棲していかなければならないなあ。ご清聴ありがとうございました。ホッホウ。