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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ブドウ糖は葡萄の味で

窮地に追い込まれたときに人間の本性が出るというけれど、わめいたり怒ったり泣いてすがってみたりさっさと逃げてしまったりまるきり固まってしまったり、冷静に対処できたら格好いいんだけど、なかなかそうもいかなくて、すると土壇場でどういう態度をとるかという方略だけでなく、そもそも追い込まれないように立ち回るというやり方もあって、困らないようにみっともない姿をみせないように、人は人生に保険をかけている(人もいる)。そうでなくても人生に起きることって平等ではないのだけれど。

ライフサイクルやらライフステージやらとにかくライフのあれこれで、「まさかこんな人だったなんて!」ってなって決裂するみたいな話があるけれど(おもに恋人関係夫婦関係か)、その「まさか(略)!」におちいる機会のないまま年齢を重ね天寿をまっとう……ってケース、まあまああるのでは、と回りくどい文章(ここまで400字弱)を用いて考える。やっぱその別れ(もしくは未別れ非別れ)の原因は相手の人格ではないですよ(要因にはなっているかもしれないけどね)みたいなことを言っていきたいのかもね。かもねむ。

それでいうならやっぱり岐路で、仕事がめっちゃ忙しいのはわかるけど、気持ちが荒れているのもわかるけど、そうかーそういう態度をとる人なのか―ということで、いやしかしまあわたしもどん底で荒れていた先々月とかを考えたらお互い様なのだけど、機嫌がいい日だけを考えて、日の当たる場所だけを見ていていいのかいという気持ちで、ここをどう受け止めるか受け入れるかが今後にかかわってくるのかな(いやしかし窮地となったら暴力とかは問題外だけど)。ひいてはわたしとあなたの関係とはなんなのか、というような。変容していく、この共棲生活がどこにゆくのか。ゆかむとすのか。

依存される、と感じるとわたしの中でアラームが鳴って距離をとりたくなる。自分がめためたなときはひとりになりたいと思って自室にひきこもったりする。わたしは人との関係を必要としないのかもしれない(そんなことはない)。そうだとしても、他者はそうではないかもしれない(では何をすべきか)。最前に戻れば、窮地に冷静な態度がとれるのは格好いいけど、べつに正解ではないような気もする。窮地。外部からやってくる窮地ならば持ちこたえて前向きに対処できる時機を待とう。たぶん「前向きに対処」を両者できなくなってしまうのが、ほんとうの終わりなんじゃないかな。という気がいま急に。

失われた時を求めなくていいけど、ノストラダムス

自宅を出てから十年余りがすぎ、どうも実家に戻ることはなさそうで、元いた部屋は物置代わりにされ、最近では母が勉強部屋につかっているので、帰省の折に少しずつ物を片づけていたのが、この度の帰省でひと段落ついた。十代の、中高生のころのことを想い出そうとして、でもなんにもおぼえてなくて「記憶がない」としゃあしゃあ言っていたのが、その片づけをしていると思い出されて、あ、こんなことしてたわ、、という俗にいえば黒歴史的なことが山のように、でもやっぱり都会で暮らしていると忘れてしまっていて「記憶がない」、って。そのへんのものはたいがい処分して、その数年間の、しかもティーンの時代のものってものすごく密度が濃くて付随する感情も濃密で、でもそれをかたっぱしから否定して棄ててしまって、もうあとは服とか参考書とか悩まずに捨てたってよい物々で、わたしったら本当に過去がなくなってしまった。

あのころは、十代の思い込みみたいなものもあったけど、ノストラダムスの大予言というのがあって、1999年になったら全部終わってしまうのだというのを信じてるような信じていないようなうわついた時間を過ごし、でもその時を待っていたんだけど、けっきょく世界は終わらずにここまで来てしまった、いやもうその夢の倍以上の時間を生きてしまっていて、はっきりいって予定にない自分の生は、いやもう予定にないとか言っていられる以上の期間がはっきり言ったら過ぎているけど知らないふりをして、まあでもそれなりに楽しいよねという老境のまとめのようなゆるやかな肯定の中にある。

でも実は処分できないものがあって、学校の違う友人としていた手紙のやりとり、しかもお互い筆まめだったのかなかなかに続いて数十通はあるわたし宛の封書を捨てられずかといって置いておけず、手もとにあるけど恐ろしくて読めない。これをあけてしまったらわたしの失くしてしまった、無いことにしたあの時間がよみがえってしまうの。という問題を先送りにしている感じで、時限爆弾の一部が今ここに。そういえば、鍵をなくした鍵つき日記というのも早々に発見されて、持ってきてあって、それもあけるのが怖い一つであるね(あけられないし)。