紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ひとりですべてを代表するなんて

みんなに同じ質問をして、ひとりずつ答えたときに、自分が全体と化している、意識、というようなことを考えた。わたしが一番手で、質問に対してひどく簡略な回答をしてしまい、続く人々が意見をのべるごとに、そうか、そういうことを答えたらよかったんだ、というようなことに気づく(気づくというか、思わされる、のだけど。それは場の空気を読み、流される、ということで)。

自分(人々)が何がわからないかわからない、ってメモにあるけど、これで合ってるんだろうか。ともかく。言われてはじめて気づくことがある。しかしそれだって、全部頭の中にあったよと思うことである。いやでも、言語化していないのだから、なにを言ってもだめだよ、という気もする。頭の中で、いろいろなものごとが計算されて、枝葉を取り払ったうえでの、最前の回答であったのに。

今となって、ああ、みんな分の会話をひとりでして結論したんだとわかった。何人かがひとつずつ意見を出して、それを並列にあつかった上で、真実にたどり着きたかったのだ、われわれは。

といっても、個別性を話題にしだすと、結局は「人それぞれ」という何も言っていないに等しい地点にたどり着く。一番手がそれはあまりよくない。のか。よくないわな。

そして、言語化という点に注目したのだけど、言葉はツールでありながら、人間を対象として規定し、駆動することができる。人間が目的語となり、言葉に従属させられる瞬間。だとして。それを無視して、自分が主体であり続けようとする(した)ことが、乗り切れない原因だったんじゃない? 言語を無意識に押し込めて、だまされないぞと自分が主導権を握りたかったんでは? わたし。

言葉に振り回されている人を見ると滑稽に思うのだけど、しかし言葉はうまくつかえれば、思考や行動の最高のブースターとして機能するということは知っている。知っている気がする。この発想がそもそも、言葉を支配下におきたがっている?

その一方で、言葉のことを信頼している面も多分にある。あるんだよ。言葉はなんでもあらわせる、仮定できる、小さくも大きくもなる。上手につきあいたいな。ときに振り回されるのもいいのかもしれない。

複数人で質問を掘っていったら、素晴らしいものが掘れた! みたいなのが苦手である。掘れたものが素晴らしいのであればいいのだけど、「みんなでやることが大切だ」という結論になってしまうと嫌だ。眩暈がする。

しかし、よく思うことだけど、自分の考えなどをもっとあらわしていく必要がある。あるね。言葉のことは信用しているけど、聞き手のことを信用していない節がある。(ブログの)読み手のことは信用しているけど、それでもどこか投げやりで、いちばんの読者は自分であると思っているから、やはり自閉的な表現になっている気がする。傷つきたくないと思っているのかな。

ちょっと待って、この思考も「ひとり会議」で全体を代表しようとしていない? というような。個別性、個別性とは。すべての可能性をひろわなくていい。ひとつしか持ってはいけない? 持ってはいけないことにしてみよう。ワア綱渡りみたいでヒヤヒヤするぜ。という感じでしばらく生きてみよう。と決めた。今決めた。おやすみなさい。