紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ひかり

関係しそうなものをばーっと出してチェックしてみるとまだまだ大丈夫というか、あれとあれがだめでもまだこんなに残っていていけるじゃん、となんだか明るい気持ちになる。ぜんぜん、生きてる。気持ちは浮足立っていて、善の方向というか、なにがなんでも光ある方に集約されていくような印象が、世界に、ある。それはとても美しいし、頼もしいことだと思っている。けれど、そういう認識って気のせいというかうそみたいに剥がれてしまうんじゃないかという疑念がついてまわったりする。世界の、感情の、書割感がある。それは世界が脆弱なのか自分が考えすぎなのか、誰がなにを考えたって現実は確かに現実なのだから(本当か?)。

同居人が(本当か?)とうたがう猫の絵を描いてくれて早くLINEスタンプにしてほしいんですけど、まかせたと言われたので1ミリも進まないんですけど早くLINEスタンプにしてほしい。生活は、そんな些細な、しかし確実な欠片を積み上げていかねばならない、と今は思っているフェーズ。思考はいつも同じなんだけど、そのうち飽きてつぎの段階に進む。今度はどんな嘘を思いつくのか。なんてことを書いてるから書割感から抜け出せないのかもしれないね。

自分は誰も見てないSNSでも更新し続けることができる、と思い至ってゾッとしたんだけど、自然は誰も見ていなくてもそこにある、みたいなやつかもと思う。本当かなー。自分だけは見てるんじゃないのーとも思うけど。まあそれはそれで自然か。その一方で過剰な時もあるの、自分と他者への不信がある気がした。それをよくないと言ってしまうのは簡単なのだけど、それで終わる話でもないからこれもちょっとずつやっていくしかないのだろうな。その過程で面食らわせてしまう人には悪いなぁと思いつつ。

ずーーーーーっとやらなければと思いながら後回しにしていたことに手をつけたら、だいぶ気持ちが軽くなった。気候のせいかもだけどいい感じだ。年末は久しぶりにのんびりできるといいな。

みてるドラマ

出先で飲んだお湯がおいしくて、きいたらゆずの皮を入れているといわれ、なるほどと思って真似をする。皮はママレードとかお吸い物に添えるとかにしてたけど新しい一面が。そういうのを知るとなんであれやってみたくなる。実験魂だ。

今期は「スーツ」と「けもなれ」と「落語心中」と「まんぷく」を観ている。「スーツ」は原作をネットフリックスだかで見た同居人からの要望であんまり本気で見ていない。トレンディを引きずっていてつらいと思ってしまう。「けもなれ」は同居人に「つめこみすぎでは(着地点が全然わからない)」と言われてしまっていた。わたしはそんなにつらくないので、そうかーという感じ。でもあのしゃちょーを「頭の回転が速い仕事のできる人」っていわせてたのはやめてくれと思った。「落語心中」は普通にいいです。一番いいかもと思っている。それで「まんぷく」は安藤サクラだから観はじめたけど、長谷川博己が振り切れてて最高なのでわたしと同居人は夢中で見ている。朝ドラって期間も長いし出演者も多いし毎日やってるしちょっと違うよなと思いながらでも夢中だ。長谷川博己に夢中だ。

十代のころはテレビっ子でドラマもたくさん見てたけど、実家を出て一時期テレビのない生活をしていたこともあったし、ドラマはつくりごとだからと思ってみなくなってしまった。物語は好きなのに、テレビドラマは信用できないと思い込んでいた。話題になるドラマはそれなりに面白くて、教えてよー! ってあとから思ったりするから、面白くないわけではないのだ。雑誌の連載とかアニメとかもはじめは一通りチェックして、随時切っていくみたいなの、やってる人がいて、それが正しいのかもしれない。が、時間も体力もなく、あとたぶん "切る" ことができずにつまらんよなーと思いつつ全部見ちゃう未来が想像できるのでなかなか踏み出せない。有象無象に対して敏感でないというか、自分を守るためにいいかも係数にゼロを入れちゃうような。ことを。しがち。