紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


いつか新しい本能

昼時にセブンイレブンに行ったら家族で来ているものが多く、おお連休という感じだったがこちらとしては労働中の身なので騒がしいなと思ったくらい。子らは未就学児っぽく、親たちのカゴには昼食めいたものが入っており、近くの公園にでも行くのだろうか。二手に分かれるレジの並び列はお菓子とアイスの機械の間に長く長く続いている。早々に吟味をあきらめて適当に選んだパンなぞを持って並び、前の親子連れ、女の子の目線はアンパンマンのお菓子、チョコレート、グミと移っていき、低い棚に置かれるもののそれなりの意味を知る。そしてそれを留める母親はミントのチョコレートはちゃっかりカゴに入れる。最後の最後でメントスの攻防戦を眺めながら、これらがおいしくて食べられるものだと子どもたちはわかっている、うまれ落ちた瞬間からわかっていることに胸を突き刺されたようになる。そういうときに自分の子ども時代を考えて、さらにもっと昔の子どもたちのことを考える。これほど甘く(またはその他の任意の味の)効率的な食べ物があっただろうか。充分未来!!! おにぎりとかサトウキビとかの色の地味さを思う。

子どもが好きといえばもうひとつ、ガチャガチャがあり、座って眺めていると本当に子どもたちは走ってくる。あの吸引力はなんなのだ。それで親(たまに祖父母)たちへのプレゼンの多様さ(一番よかったのは「絶対いいの出すから!!」、またそれに対する諫めの言葉(多くは「そしたらお菓子買わないよ」)。あれはもう本能に刷り込まれているのかもしれない。猫が魚を好きなように、虫たちが光に集まるように。それでも親の会計中にガチャガチャにはりついている子どもたちを見ていると、秘密の言葉をかわしていて、その小さな球に無限を見ているの、わたしも身に覚えがあるから応援する。できるだけ長く魔法がとけませんように!

ここで線をひいてとんとんにする(勝手)

 

自分が詩人だったことがわかってしまっておどろいている

詩はともかく(と言ったって、当時は詩を書いてるとは思っていなかったのだ)日記の文体がアイタタな感じでそっちにも戦慄する

ある年代の人ってインターネット上で同じような文体になってしまうんだろうか?

いってみればネット人格の文体?  その意味でわたしはインターネットの全員であるし、全員を(過去の)わたしと見なすことができてしまう

 

(本当はそんなわけないのに)

 

みたいなことを思って、同居人の言ってることしょっちゅう「何言ってんだ」って思うけど、同居人も同じく「何言ってんだ」って思うことあるんだろうなと思った  からそう言った

でもその「何言ってんだ」を考えるのをやめられないのだった

 

急に『文学部唯野教授』読みはじめて、はじめの「印象批評」がばっさりやられてるので笑ってしまった

自分を肯定するために作品があるかといえば否で、文学理論をあやつる人はもっと高邁な思想でもってやってくれ、みたいな  わはははは

 

個人的な世界でしか生きられないのに、全体性のあることを知って(知らされて)それを考えながら生きねばならないのは難儀やなと思うことしきり

 

あと30分で終わる四月だから記念にスマホから書いた  もう眠りの境界にいるので誤字で変な数字や記号が並んでないといいのだけど  おやすみ四月  二度と会えない四月