紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


鍋にしましょう

恋人に嘘をつかれていた時間のことを思い出すとそれなりに胸がいたんだりもするけれど。すべてが感傷のような気もする。嘘はすでにわかっていてそれを言わせたかったのに決して口を割らなかったのはプライドだったかもしれないし優しさだったかもしれないと思ったりもしてみる。けっきょく言われたところでもうどうかしちゃってただろうし、それでよかった。結果ね。

嘘をつかれるのはつらいのだけど、嘘をつかなきゃいけない方だってつらいみたいな顔をして、それが優しさかもと思えばそうかもしれないし、でも頼んでないし、「殴る方だって痛い」みたいなものと思えば同情はできなくなってしまった。「怒りたくて怒ってるわけじゃない」「殴りたくて殴ってるわけじゃない」「嘘をつきたくてついてるわけじゃない」エトセトラエトセトラ、「したくてしてるわけじゃない」の救済ポイントはどこかにあるのだろうか。

なんてことを考えたりするのはわたしが優しいからではなく、自分がその立場になったときの逃げ道を確保しておこうとしているからだと思うよ。

実はそのとき、わたしも秘密を持っていたとしたら? 嘘ついていること、ばれてなかったら嘘じゃないのだやっぱり。っていうのはどこかいがんでる気がするけれど。嘘はそもそもばれないようにするもので、それがあるってことは本来的には隠されて、みんなその周りをぐるぐるとまわっている。嘘の実在が確信されているのはなんでだろう。無意識より意識にのぼっている。カフカの『城』的なもの、ほかにもたくさんたくさんあるんだろうけど、「嘘」の価値をそこまで貶めてしまったのは。ばれるようなところに嘘をおいておく人たちのせいかなぁ。でもこの言い方は自分は上手に嘘をつけると思っているみたいだね。自分をすぐにその他大勢に溶け込ませようとする努力。無駄かなぁ。でもそこまで自分を特別だとは思えないんだよね。

 

あかんこの寒さがどうかしてるから鍋方向へ急カーブする

危険すぎる

浅井健一の「危険すぎる」をきいてるんだけど、歌詞が最高だった。っていう話をしたら、そんなことはみんな知っており、2017年末にベンジーにうけてるのはわたしくらいであるといわれてしまった。

 

 

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コーラ買ってくるけど他になにかいるものあるってきかれて「スケッチブック」っていうところ!! そのこころは「笑顔を描きたい」!! やべー感じがやべーのでめちゃくちゃいい。

 

雑貨屋の前なんぞを通りかかってみたら店頭にはクリスマスカード、赤と緑と白でそれだけでなにかわかる。精査不要。そういえば昔、クリスマスカードを贈りたくて、でも相手を思いつかなくて実家に贈ったことを思い出し恥ずかし!! ってなったけど、ふとグリーティングカードを送って、それを受け入れてくれる人が欲しいのだった。

二十年近く坂本慎太郎を是として生きてきたため、「友だち少しいればいい」と思っていたんだけど、ここ数年、人間関係がまったく動いていないことに気づいてそれはどうにかしたいとか思う。

さてそれで友達。そもそも(わたしにとって)友達の定義とはなにか、なにをすべきかみたいなことを考えはじめ、地元が同じで思春期を一緒に過ごした友達、というのは今さらつくれる類ではなく、勉学や仕事の同期というのもあり(これは血縁、地縁、社縁、という歴史的な人間関係の変遷のやつを参考に考えました)、ではそのほかはなにかといえば、好んでつくる縁だよなぁと思ったので、わたしには今、自発的につくる友達が足りないのでしょう。今までの縁が結婚出産とかで離れている面もあるかもしれない。

何をすべきかってことについては人によりけりではあるのだけど、現状の友人たちにわたしがしていることは、①誕生日祝いのメッセージを送る、年一回だけしかやりとりしない人もいるけど、とりあえず生存していることを喜び合う人々。もうちょっと絞ると②年賀状のやりとりをする、これは数えてみたら五人だった。この人たちには何かあったら連絡が行くようにしたい、ぐらいが現在のわたしの友人関係。年賀状やらメッセージを送る相手が増えたらいいと思うのだけど、それは発現ポイントであり、そこにたどり着くまでにいろいろあるのだった。

友人募集のつもりではないんだけど、ツイートに反応をくれる人が少しだけどいたので、そこは素直にうれしく、自分が縮こまっていたことを感じた。ブログもTwitterも一人遊びみたいなつもりでやっていて、それは思えば自分なりの防衛策なのだったけど、もう少し他者とやりとりをしてみてもよいのではないかと思った。誰かにあてて書く(話す)っていうのがたぶん足りないんだとおもう。あっとうてきに。わたしに。