紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしの人生、おそらくは

演劇の感想、まだ書きたいのだけどなんやかんや腰が重く、考えがまとまらず、そうこうしているうちに全部忘れてしまってわたしの紡ぐ感想は単なるわたしの考え披露になってしまうかもしらん。書き出さないと動かない文章で、まあそれは置いておいて今日のことを書く。明日また舞台を観る予定だからどんどん流されていってしまう。

知人のつきそいでたくさんブースの出ているところに行ってきて、ハア市場ヤア市場という気持ちになる。わたしが考えていた素朴な人々の集まりのようなものはいまやまあまあの市場規模を持ち、まあまあの利益を出すビジネスの場と考えられていたのであった。コンサルタントの皆様よ! まあそこに脊髄反射で嫌悪しているわけにはいかないとか思って最後には少し慣れてしまったのだけど、それすら相手のねらいでは、とか思いながら。

たぶんわたしが危機的状況だったということ、最近ようやく考えられるようになってきた。やはりあれは異常だった数か月。今はどうにか元気になってきて、またぼちぼちやっていこうと考えているところ。に、人生はみじかいあなたはまだ若いとか言ってくれる人、悪気があるわけではないのわかってるし基本的に好いてる人(たち)だから嬉しくてそうですよねーやってみたいんですよねーとか答えてしまって、まあそれも本気ではあるんだけど、家でぼんやりしてるときなんぞにあの頃のことを考えてしまって、あ、わたしまだ本調子じゃないぞいきなりエンジン全開はできないぞと我に返る。逃げてるような気がしてしまい罪悪感も感じたりするしよくはない。一日中寝てしまったときの気持ち。起きられる日は起きていられるのだから。元気がついてくれば自然と挑戦できるのだ、とか思う。まあでも加齢もしていくし、悩ましいところではある。直面している事態はまあ置いておいても、わたしの人生おそらくはこんな感じで落ち着きはしないのではという予感がある。

(2)

この舞台の感想をながめていると、「観て以降」という言い方が散見されて、つまりのひとつの歴史的事柄のようにあつかわれている。それはわたしも同じで、これを観たあとのわたしはそれ以前のわたしではない。それはどんなことでも当たり前のことなのだけど、それが特別になってしまうのだった。「以降」、わたしはほかのものごとの「以降」のことも考えるようになった。この「以降」を上手にあつかえなければ、わたしがわたしとして生きていることが無意味であるような、自分と世界と歴史に責任をもつ主体であれとためされるような。舞台は舞台上でおわらず、客席にひらき、劇場の外にひらき、明日にもあさってにも浸食していく。見事でおそろしく罪深いのだった。共犯者なんてかわいらしいものでなく、観た人を現実の舞台に引きずり出して当事者にしてしまうのだ。

メインとしてえがかれる女性は、いなくなってしまった恋人のことを考えている。忘れられない。別離なんてよくあることで、彼女だけが特別なわけではない。時間が忘れさせてくれる。未来へ進もう。それがかれのためでもある。そんな言葉が飛び交う中で、彼女が特別だったのは、忘れないでいる、を選んだ、選ぼうとしたことだった。

でもこれからがややこしいのは、「忘れないでいる」が正しい、と大声でいう舞台ではない。し、「忘れて前をむこう」が正しい、とも言われない。どうもどちらかが正しいなんていうナマナカなものではないのだが、両論には派閥があって、それぞれが相手を説得しようと叫ぶ(「忘れないでいる」派閥は叫んでるって感じではないのだけど、それもその流儀に則っている感じがしてよかった。とっても頑なだった)。というのがわたしの思うこの舞台のあらすじ。というか枠組み。それと前回書いたのだけど、「言葉を伝えたい/待っている、しかし言葉は十全ではない問題」が組み合わさっている、と思った。

前回(『メロメロたち』)、観たしよかったのに全部忘れるという悲しい事件があったため(記憶力がね……)、今回は筆記用具を持ち込み、気になる言葉を書き留めていった。し、『メロメロたち』の脚本も購入してリベンジってなったのだけど、それを読みながら、観ながら書き留める言葉は自分(鑑賞者)のエモに依拠するなぁと思った。だからやっぱり客観的ではないけれど、それで良いという気もする。し、脚本を読もうとも、舞台って毎回違うものだから「脚本」を絶対的テクストとしてあつかうのも正しくないように思うよ。

ということで、その時のメモを読み返しているのだけど、まあやっぱりよくわからなくなっている。がとにかくあとふたつほどは書きたいことがあるのであった。