紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


その二項対立、嘘じゃない?

都会は洗練されていて、田舎は保守的だっていうの、わりと信じられているけど本当にそうなんだろうか。都会はすぐれていて、田舎は野蛮だという植民地主義みたいな思想の延長にあるんじゃないんだろうか(物量の多寡とか啓蒙的なやつ、言わないけどみんなの根底にあるとわたしは思っている(ほんとはわたしだけが持っているのかもしれない))。実家が山の方なので、帰るたびにそういうこと、思わなくはないけれど、都会の人だってたいがい野蛮じゃんというようなこと、思ったりする。都会の人の半数以上は地方出身者なのだとしたら、それはそうなのかも。人間の質的には本当は同じなのかもしれない。

というのは、恩師、これは都会の人なのだけど、文化を研究していて皮肉屋で時事ネタもちゃんとキャッチしていて、知己に富んだコメントをする、という印象のあった人、年に数度会うのやつに行ってきて、フンフンホンホンと話をきいて、やー切れ味変わらず、それにしたってだいぶ丸くなっていらっしゃる、なんて思っていたのだけど、それが高畑某氏の件にふれて、小粋なギャグをふるまって、ささやかな笑いを、、という場面があったのだけど、わたしはそれを笑っていいのか、というか言っていいのかという気持ちになった。そんな細かいことを言っていては息苦しい社会になるのだとか、ブラックユーモアなのだから解せとか、そういう話なんであろうか。とにかくわたしはぞっとして、それからもやもやしている。

わたしのみているインターネットの人々はこんなこと言わない、もしくはすぐにだれかが問題提起して喧々諤々するとか思ってしまい、顔も見たことのない人たちと比べている自分もなんだかなと思ったが、ちゃんと考えたりとか、教育の延長線上にいるとわたしが感じる人が少ないだけなのかもしれない。それにインターネットにも野蛮な人はたくさんいる。

高等教育の進学率も上がっているし(これはやっぱり田舎は低いのだけど)、全体の水準はあがっているはずなのに、洗練された人にはインターネットでしか会えないので、まぼろしみたいなものなのかもしれない。同居人はわりと洗練されている方というか、インターネットに近い人なので動向をおさえているだけかもしれないけれど、話していてストレスが少ない。いくら洗練されていても、生身の人間は野蛮だというだけの話かもしれないし、こういっているわたしも夜中に台所で生肉を齧っているかもしれない。心情的にはインターネッツ、頭でっかちだから身体性を重視したいと思っているのだけど、野蛮なふるまいにばかり出会ってしまうとくじけてひきこもってしまいそう。

概念フェチ

5、が集まって10になるのが好きだと思った。50がふたつで100でもいい。たとえば350円のものをふたつ買って700円になるのがいい。150円でも250円でも450円でもいいんだけど、やっぱり350円がいいんだ。あわせて300円では少なすぎるし、900円では多すぎる(それなら1,000円にしたい)。500円はちょっきりすぎる。なんてことを考えながら、まあでも円でなければまた感じが変わってくるね。

 

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

 

穂村弘の『世界音痴』を読んでいる。はじめは世界への違和感くらいかなと思ってたのが、読んでいくうちに違和感どころではない、とんでもない生きづらさ、というと深刻な感じがしてしまうけど、どうしても直せないボタンをかけ違えた世界というか、とにかくずれ続けているという感じがした。でも疎外を感じて辛い悲しい恨む、ではなく、ふふっと笑ってしまう感じになっているの、キャラクターもあるし、この人に短歌とか文章があってよかったと思った。なんて、本人はそれでも救われないのだけど。いやしかし、そもそも救われるってなんだ。

世界への違和感って、たぶん誰もが少なくとも少しは感じているのではないかとわたしは考えているのだけど、それで程度の差もたぶんあるんだけど(でもその差はだれにもわからない)、性格というか、当人の気質でカヴァーされる部分もあり、直しましょう治しましょうってもんでもなく、抱えて生きてくしかないのかなとか思う。

いやなんだこれめっちゃふわっとしたことを書いてしまったぞ。病気レベルで生きづらいのであれば治療が有効なこともあるんだろうけど、なんかもう世界がめちゃくちゃでみんなが奇妙なことを言っていたらそんな違和感なんてどうでもよくなっちゃうんのではとか思ってしまう。はかいの気持ちになってしまう。

 

布もいいけど毛糸もいいなと思ったのは一目一目編むからかなと思ったりする。糸のほつれをほどいてしまいたい。そして一からうみだしたい。