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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


『ドッグレッグス』の感想とか

小さな場所で映画を観た。感想を言い合って別する。人間の個人が別々のものであるのは当然なのだけれど、そこに平等という言葉をひっかぶせるのは欺瞞なのではないか。というような。うまれつきの差異はある。育っていく環境の差異はある。この世にいることは等しいが、その個人個人を平等だーって叫ぶのは難しいのではないの。というような。不可能ではない。ただしそれはすべての人が意識的に勝ち取っていかないといけないのではないか、ということであった。
映画は障害者のプロレスのドキュメンタリーで、その本物を見たことはないのでなんともいえないけれど、障害のある人とその支援者つまり健常者の試合、というか長きにわたる歴史を軸に映される(というか歴史は今でも終わっていないのだろうけど、彼らの関係は多分ずっとあるのだろうから)。色々言われたら嫌だなと思うけど書く。普通、障害者は健常者に勝てない。かなわない。本当にわかりきったことである(なんでかといったら、社会は健常者がつくったものだから、だろうか)。(ハンデをつけるなどして)障害者が健常者に勝てるようにする、イーブンになるようにする、というのが「正しい」のかというようなことを考える(それは「政治的に正しい」ではない方の「正しい」だと前提して)。絶対に勝てない試合に十年も挑む障害者。手加減して負けることなどしない健常者。力の強さとか可能なことは健常者の方がもちろん多くて大きくて平等なんてとても言えないのに、このふたりの対決はどこまでも平等なんじゃないかなとか思ったのであった(ほかの選手たちも何癖もありすぎてすごいのと悲壮感みたいのはあんまりなくて笑えたからそれもすごい)。

doglegsmovie.com

 

最近は意味がありすぎるものが苦手だからドキュメンタリーが好もしいのかもとか思った(こんな題材なのに、説教くささとか道徳心みたいなのは感じられなくて、ただあるだけの作品であって、楽な気持ちで観られたのであった)。

 

★追記

わたしはここで障害/健常だけでなく男性/女性とか大人/子どもについての”平等”にも広げて考えられるのではないかと思った(書いてないけどね)。しかし、大人と子どもの関係(対比)において、大人が子どもに手加減して接するというのは正しいあり方のように思える……。手加減する、ハンデを与えるという形が必ずしも”平等”ではないと一般化したかったのが自分で反証してみてしまったのでいやはやである。まあでもともかく、こーゆーのが平等でしょーと決めてしまうのは乱暴なやり方で、すべては関係の中に生まれて息づくということではないだろうか。そう考えていくと般化は無力なのかという問いがあらわれたが、それはまた別の機会に。

★さらに追記

「子どもは大人にかなわない」「女は男にかなわない」はまあまあ広まっている言説であるが(当否や正誤はともかくとして)、「障害者は健常者にかなわない」は口に出しづらい雰囲気があると思った。わたしだけかな。なにが正しいか(正しくないか)というより、どうしてそう考えられるのか(考えられないのか)ということが知りたい。前者ふたつよりもそれが圧倒的に真実だからだろうか。本当に?