読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ラビットおくさんのぶどうパン

めざましが鳴る前に起きたが、それはスマートフォンの睡眠アプリが起きるサイクルを教えたからで、わたしは起きる方法を二重にセットしている。慎重派といえばそうだが、自分の目覚め力を信じていない、とか、睡眠慾に対する絶対の信頼とかそういう感じなので、褒められることではない。隣でヒナ氏が蒲団にくるまって寝ているのが相変わらずに奇妙な形になっていたので写真を撮る。毛布をかぶって顔が見えなくなってしまう人をわたしは知らない。

それで、今朝は弁当をつくるぞと決めていたのを思い出したから起き上がって、まずお湯を沸かした。お湯を大匙1はかって、顆粒のだしをとかし、卵をひとつ割る、解きほぐしてから醤油を少しだけ入れる。これを間違えると真っ黒いものができてしまうので慎重に。黄色だった卵液はすぐに茶色にそまる。甘いのが好きだなと思って砂糖を少し、塩をさらに少しだけいれて、またかき混ぜる。卵焼き用の小さなフライパンを出して、サラダ油をティシュペーパーで伸ばす。火をつけ、一瞬でごはんのタッパーをふたつ電子レンジに。500Wで1分半。温まったフライパンに卵液を半分流し込む。菜箸を伝わらせて、半分入れた感じは明らかにわかる(ほんとは半分より少し多いあたりと思うけど)。本当にそう感じるのだ。卵白が流れ出して器が軽くなるのだろう。四角い底に広がったのを、丸く膨らんだ部分を菜箸でつついてつぶす。裏側が焼けているか確かめながら、手前に向かって巻いていく……。

卵焼きが終わったら冷ます間に米をつめる。昔に、母ではなく父が弁当をつくってくれて、母親作のにくらべたらそれは無骨な出来だったのだけど、ご飯の間に海苔がはさんであるいわゆるのり弁が、まあ海苔も無骨に一枚はさんであるだけだったから切れなくて食べづらかったのだけど、それがたいへんにうれしかったという一度の記憶だけでご飯にはなにか細工をすることにしている。今日は鮭フレークを隠す。

おかずを適当につめているとヒナ氏が起きてきてつめられている弁当をみて「きゃあ」と言う。楽しいのだ。カップにお湯をいれてあたためていたのにコーヒーを淹れてパンを焼いてくれる。卵焼きを入れて、ヒナ氏のお弁当箱は大きいので、冷凍食品を一品多く詰めるとできあがりで、それを見ながら干しぶどうの入ったパンを食べる。以前、朝食なしに弁当を見ながらコーヒーをのんでいて、食べてしまいそうになったことがあったね。

さて、外部に立つ思考はあかん(要約)でおなじみの保坂和志を手にとって、しかも皆様が『遠い触覚』を読んでいることは知っているうえで、『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでいる。先日読んでいた村上春樹のエセーだって、このタイミングで『走ることについて……』であるし、どれだけ時流に逆らうんだという気もして、しかしわたしはわたしのタイミングで生きて、読書をするだけなのだった。

 

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

 

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

読んでいてこれはどうやらあの人っぽいぞと思い、それはまあ紹介していたから当然なのだけど、なんだかその秘密のあんちょこを読んでいるようで少し後ろめたい気分に勝手になった。しかしまあ読み応えのある良い本である。

書くことや思考にかんするもろもろがリセットされた感じがあって、毛穴がひらくような、ざわっと柔らかく細い毛たちが逆立って、吹いてもいない風を感じるような、小さな小さな変化が、本を読んでいるのにそんな身体感覚をおぼえるのは不思議なのだけど、なんだかひとつひとつの部品が組み替えられて、もしかしたら新しいものに交換されて、いる。今までと変わらないすべてが新しい。あかさたなを組み替えて単語を文章にして、てにをはにも注意して、でもなげやりに、という成り立ちがとんでもなく不思議に見えてくる。今。原初の言葉の海。砂浜に裸足でひたっている、イメージ。それで、今日の朝の風景を書いた。