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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ロボットと人間

ロボはすごいぞ。最近のはとくになんだってやる。危険なところで働いたり介護もするし、将棋もさす。自動車の自動運転もロボの仕業だし、映画の脚本や小説だって書いてしまう。そんなふうに単純な仕事や人間の代替行為だけにとどまらず、なにかをうみ出したり、判断やら決定やらもまかせてくださいというわけで、未来の人間ってば、ロボたちの所業を消費していくだけのパーフェクトコンシューマーになれるんじゃないだろうか。スゲー未来。未来スゲー。人間はそんな風になるために何千年も歴史を紡いできたんだろうか。

というのはさておいて、ロボの書いた脚本、小説、棋譜などなどにわたしは感動できるんだろうかという疑問がある。べつに感動でなくてもいいのだけど、感服したりときに憤ったり、顔のないものの創作物に対して今までどおりの態度でいられるか。テクスト論の観点からいけば、イエスである。テクストはテクストでしかないから。といちおう述べておくけれど。作品って発する人の身体性によって内容が担保されるように思う。どんなに正しい美辞麗句でも人工知能が語るだけでは、あーハイハイとなってしまう気がする。いうだけならだれでもできるから。

と、わたしの考えを申し上げたりしたのだけど、ピクサーとか脚本をチームでやってるよねといわれて、人間たちの間でももうすでに作品から身体性を排除そして売れ線を確保ということが行なわれていたのであった。それがうけて興行収入もスゲーのだから、個人の時代は終わったのかもしれない。なんかでもだからやっぱピクサーあんまり好きになれないのかもとか思ったりもして、たぶん身体性を排除した作品は経済的にはキくのかなとかそんなことを考えてしまった。非合理なのが人間だからとかそんな。

いつか夏に手を振って

五十年前の夏は暑くて、嫌んなるくらい暑くて、熱された空気が道路から景色をゆがんでたちのぼらせる中を少女だった母が歩いていき、駅の向こうの繁華街をぬけてなにもない公園の脇をとおって、今はない焼却場の隣のプールはにぎわっていたろうか。彼女がどうはしゃいだかは想像もつかないわたしはわたしの夏にプールで遊んだ姿は思い出せる。小学生のわたし達にはプールのある場所も50mプールの深さも広さも途方もなくて、やたらに冷たい水、底の色は深く、知らない人の背中はただ遠く、休憩時間に水分が蒸発したあとはじりじりと肌が焦げていく、石の隙間からのぞく雑草とアリが行き来するその長い時間、それだけの夏を彼女も生きたのか。帰ってくるうちに髪もすっかり乾いてやっぱり暑くなってしまう。その髪は長かったか短かったか。そんなこともわたしはわからない。延々と歩いている小さな人のことを考えたそれだけで。

一番古い友人というのは、小学校のときからのつきあいで、仲良くなったのは三年生のときだけど、わたしと彼女の歴史は小学校入学のときからかぞえられる。と、約四半世紀あり、今では年に数度会うだけではあるが、今さら同じ話題があるわけではないが、だからこそ代わりのない人である。その彼女に子どもがうまれたのを見にいき、生後ひと月もたたない男児をかわいが(るもなにもかれはくるまれて眠っているだけだったが)ってやっぱりそれははるかな気持ち。小学生だったわたし(達)に「二十年後、彼女の子どもを抱いてますよ」って伝えたいし、この小さな人には「六年も経てば、二十年以上も縁の続く人に会えますよ」って教えたい。すこし感傷的にすぎるとも思うけれど、ああこれがはるかな気持ち。