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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


真人間に

自分の不定形さにもやもやしながらでもしょうがないという気持ちも。一歩進んで一歩下がるような日々も積み重なっていると信じたい。いろんなことが形になりそうなならなそうな、ああ自分がつなげるんだという直感もあり、ゼロやら1やらをやりとりしている。内容にかかわらず、その外側のうつわはなんらかのシグナルを発している気がする。なにを言うんだなにを言っているんだ、聞き取りたい。でもわたしの都合のいいように訳しているだけかもしれないね。xxx

毎日同じことをしているの、揃えることの安心感とそんなのロボじゃんという反駁が自分のなかで交錯しているのを感じる。規則正しい生活は安定と安心をもたらす。きもちもおだやかになる。でもそれに固執するのは変な気がする。毎日同じ一日をすごす。しかし季節はうつっていく。春一番が吹いた。そして今日はまた寒かった。それでも春に近づくのを感じる。なにやらむずむずする。いい感じだ。昨日と今日は違う一日。でもこれも去年もその前もやったんじゃない、って思って、今日と来年の今日は同じ一日? 永遠に、えーえんに、時間に地球の自転にとらわれている。わたしたちはどこにも行けない車をまわしているハムスターなのだ。そうすると、一日一日一秒一秒、老いている自分の身体を大事にあつかわないといけないのかもとか思ったりする。

わたし。けっこう、「めんどくさい」でできているところがあり、ある日突然「めんどくさい」に至り、急激に嫌になってしまうのん、そうして昔に「めんどくさいって人間関係で一番言ってはいけないんだぜ」だの「そういわれた方の気持ちも考えろよ」だのいわれて、そうか真人間にならねばと思った単純なわたしであったけど、今考えてみればこれは呪詛で、面倒って言われた方の気持ちだけじゃなくて面倒って言ってる方の気持ちも考えてくれよと思うのであった。面倒って思う方より面倒って思わせる方も悪いだろうと今ならば思える。まあそれは屁理屈でどっちもどっちなんだろうけど。

でもそういえばブログを面倒だと思ったことはなくて、それは義務じゃないからっていうのもあるんだろうけど、やっぱ続くものは続くんだよっていう気がする。のだった。

うまれたての言葉の小鹿のようなぷるぷる後ろ足

あなたなくしてこの成功はなかった、というの本当だけど半分は嘘。実際に各人が占めた場所、積み木を重ねてピラミッドができる。ピースがひとつでもなければ成り立たなかったけれど、なければないでほかの誰かがその位置を埋めるだけなのだ。というの、本当に情緒というものがなく、口に出せなかった。

講演的なもの、「このスライドを先ほど〇時までつくってました」っていうの、失礼ではと思ってしまうんだけど(ちゃんと準備しておいてくれよ)、でもうまれたてのほやほやをきかせてくれるなら、それは貴重なのかもしれない。ずっと前に出来上がっていて何遍もやられて為れた口調で話される言葉は半分くらい生きていないかも。でもやっぱりうまれたての言葉って、やわらかくて脆弱で、”新鮮である”ことしかいいところがない場合もある。みずみずしくってかつ強く生き延びていく言葉、言説、考え方はどこから出てくるんだろう。どこにいるんだろうか。

また一方で、心をゆさぶってくる話し方というものも怖い。感情で盛り上がるのって正しい気がしちゃうんだけど本当にそうなのか、それこそ語り口の"新鮮である"ことに振り切った表現方法ではないのか。その話をきいて泣くなというつもりはないけれど。発表者のまたは自分の感情に浸りきるのも重要で、でもそこで終わってしまってはいけないのでは。お互いに。等。

なんて。新奇であることだけを価値づけて文章をつないでいるだけなのではこの日記そういえばなんて思いながら今日はおしまい。