紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


くしくも

くしくも、みたいな感じでいたい。奇しくも、もしくは奇も。どういうことかというと、なめらかになだらかに気づいたらここにいました、みたいな顔をしていたい。奇しくも、ここに。汗もかかず、負荷もなく、心臓が変に速くなることもなく平熱平常運転で。みたいなのはポーズといえばそうだけど、それ以上にわたしの思考にまで侵食していて、ちょっとやばいぞって思うことある。

わたしの得意技が詭弁から尖りすぎに変えられ、笑ったけど少し落ち込む。少し前から考えている写真見せたら "ねらいすぎ" と言われた事件とか自分が過去にしてきた人とのかかわり方とか(短歌)にぎりすぎのこととかについてつながってくる感じがした。

はじめに考えたことを捨てて(または下敷きにして)その次に考えたことを口にしている。それで一見すると飛躍があるように見える。なんで言わないかっていうと、普通のことを言いたくない、みたいなことで、そこにはわかってほしいとわかられたくないが同時に存在する。両者の隙間、もしくは絶妙に重なり合った細い細い線分を通り抜けようとしている。そこが楽園だと信じているんだと思う。かなりアクロバティックで叶いがたい挑戦をしているのだ。

はじめに思いついたことはいわば前提条件で、言うまでもなくみんなが共有していて、そこから話をはじめましょうという気持ちもある。前提を掲げて拍手喝采みたいの見たくないのだ。と思うのだけど。書いてて思うけど、やっぱ共有事項は表しておくべきかも。それはあなた(わたし)がどう思われたいかにかかわってはくるけれど。丁寧な議論、丁寧な論理、丁寧な積み上げだ。

けっきょくどう思われたいかで自分の行動が決まってるんだから、わたしの尖りはファッション尖りなのだ。本当は尖ってなんかいないんだーーーーー!!!!! やっぱそれは人を信じてるとか信じてないとかとかかわってる気もするし。信じてなくても尖らないでいることできるんだろうか。

 

ここまで昨晩書いてて。

っていう疑問がわいてきた。盲目的に信じているようで、うたがっていることもある。前提といいつつ自分のなかで前提していないときもある。ややこしー!

前も少し書いたけど、ブログとかtwitterで読んだり読んでくれたり(本当は読んでないかもしれないけどまあそこはいいわ)する人々には驚くほどにあけっぴろげな気持ちになるし、何らかの作業を一緒にやった人に対してはぺらぺらと喋ってしまうこともあり、自分というものがよくわからなくなったりする。何かきっかけとか土台みたいなものが感じられればだだ漏れ人間なんだ、たぶんね。そういうのも全部、くしくも、って言ってしまいたい。感じがある。