紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


指先に渇いた風を感じるような

朝起きて、今日はエントリできそうだなとか厳しそうだなとかわかるようになった。夏だからかもしれない。夏ってとんでもなく疲れる。自身の書いてるウェブログで、自分擁護するようなことばかり言ってて世話ないなって感じではありますが。暑さでやられてる件にかんしては、秋が助けてくれるでしょう。昨日あたりから、秋の空になった気がする。

八月は野外活動が多くて、野生モードになっていた頭がだんだん平常運転になってきているんだと思う。人間って不思議便利だけど、日常に戻っちゃうのは惜しい気がする。電磁波のない森へ山へ早寝早起きの世界へ思いをはせたりする。

というなんやかやで、今日はエントリできそうな日。

小さな一時間くらいのコンサートに行った。静かにお行儀よくきくって感じではなくて、楽しかったらのってね、手拍子してね、知ってたらうたってねってフランクな。開演直前まで泣き叫ぶ子ども(幼児)がいて、ロビーで落ち着かせないんだろうかとか思ってたけど、演奏がはじまった途端、その子は泣き止んでステージを見つめたし、場合によっては声を出してもよかったし。話したい人は隣の人としゃべっていたし、盛り上がった子どもは座席に立ち上がって身体を揺らしていた。そして音楽は続く。なにをしても、とりあえず鑑賞者であれば、怒られなかったし、楽器も歌も負けず立派にすっくと立っていた。

そんで、こういう楽しみ方もいいなあと思って。音楽と聴衆は対等で、街角で演奏される音楽みたいだと思った。静かにきくんでなく、雑踏の中できくもの、雑音あってなんぼの強さ、客のマナーなんて気にしないしない。楽しいならばそれでオッケーっていう。乱暴だけど原初的で強いと思った。(静かに聞きたい人の権利がどうのこうのーみたいな話はでてくるかもだけど)

すぐ影響されるあれですが、楽器習いたいと思ったりして。目星はつけていて。春からピラティスはじめて、楽器もはじめて。あと、布を染める自分を想像している。陶芸もしたい。ただ、先日やってみて、陶芸の粘土を前にしたら、なーんにも浮かんでこなかったので向いていないかもしれない。自分のからっぽさを感じる。

この夏はいろいろ変わった気がする。シェフのこととかも本当にどうでもよくなってきている。あとは仕事をやめるだけだぜ。嘘みたいな記憶でも吐き出すのはいいのかもしれない。仕事やめるのはこわいのだけど、それは再就職できるかっていうこわさなので、全然気楽なものよ。

そんで、わたしはずっと、いろいろなことを、生き方とか仕事とかを、「自分はいつかいなくなる」ことを前提としてやってきたんだけど、「(できるかぎりは)一緒にいる」っていう覚悟もアリだなという気持ちになってきた。そーゆー気持ちになっただけで、アクションはまだ起こしてないけどね。新境地みえてくる気がする。よいぞよいぞって自分を褒められる感じ。ヤッタネ。