紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


物語の一員になるために(あるいはならないために)

あっつ! なにこれ。これが夏なの。東北とか山とか行ってて、暑い盛りをスルーしてたのだけど、ついに当たってしまった8月下旬。残暑とご対面。これからひと月くらいは続く残暑。エアコンつけてもわたしの部屋まで届かない(遠いから)。冷房のある部屋で昼寝をしながら久しぶりの休日満喫。な感じ。

さて表題。世には物語があふれている。因果応報とか貧しい境遇から立身出世とかそんな感じの。ことわざ・格言レヴェルのものもあれば、個人的なサクセスストーリーとか人生転落話みたいなのもある。

で。他人の物語を自分のものにしてしまう人というのがこの世にはいる。わたしの知ってるその人は、他人の悲しい過去とか境遇とかを相談にのるとか言ってきく。そんで、その話をべったりとその人にはりつけて、人に紹介しまくっていた。

 

「この人はこんなに可哀想なうまれで、でも今はがんばっているんだ」

かーらーのー

「だから、自分はこの人をバックアップするんだ」

みーたーいーなー。

 

「可哀想な人」を自分の話に組み入れてしまう。さりげなく自分の優しさ頼もしさアピって好感度もアップ! みたいなね。それで何人もの物語を自分のために消費して、それは全然優しいわけではないと思うのだけど。

レッテル貼りみたいなものかもしれない。弱みを握るのと似たところがあって、物語を使われる人は、その人には逆らえなくなってしまう。他人に自分を預けるのはたいへん危険なことと思う。いやでもこれは極端な例として。

わたしはレッテルを貼られたくはないけれど、物語には憧れる。自分でつくる物語なら参加していきたい。それって傷つくこともあって。信念を貫くために、他人に指さされることもあるし、それは乗り越えないといけないってなんか最近本当に実感している。ノイズは取り合わなくてもいいんだ。つって。難しいんだけどね。

これって「自分で責任とって生きていく」みたいな話なので遅! アラサーで気づくとか遅! ってなる。でもなんか、責任とりたくない人たちが物語を使われる側になっちゃうんじゃないかな。なんてね。

わたし。職場で誰かと混同されることが多い。いろんな人と。名前間違われたり、間違ってメールきたり。年齢とか容姿とか近い部分もあるけど、全然違うんだよ。でもまあいいかとへらへらしてしまう。間違えた本人にとったら、わたしも、そのもう一人も同じに見えるってことだ。見た目とか仕事内容とか差異がないと思われている。

それを流してたらいかんのではないか。たぶんそれは、目立つことを恐れていて。迷彩色みたいな擬態みたいな。はっきりとしないようにしてるから、同じに思われてしまう。のでは?

そんでその結果、他人にとったらわたしはただのワンオブゼムになってしまう(というかwhich of twoなの? この英語正しいの?)。嫌だな。時と場合によるけど(お、逃げたぞ)、わたしはわたしでいたいよね。だいたい。ってことで、もっと自分を出していくことにしたいと思ったりしてる。責任感もって、差異化していこう。そんで物語を編んでいきたい。とかとか。