紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ふりをする(のはほどほどに)

どうも昨日の朝くらいから全部まちがえてる気がするのだけど、でもそういうの、たいていバイオリズムじゃねえのというのがかぶさってくる。なのでこのまちがえてる気分をやり過ごしたい。今朝は傷ついたふりをしたい気持ちだったけど(でもそれは我慢することにした)、そのあとまたいろいろかけ違えてめためたになった。もうそしたら傷ついたの言い切りまで落ちて、ふりをするみたいなちょけで乗り切るのはやめようと思った。こりゃあどん底だと割り切ったらそれなりに復活の手立てもみえてこようし、まあだめでもどん底だしなと思えた。でもあまりに常用しすぎるとそれがまた "ふりをする" ことになっちゃう気がする。落ちると決めたら落ちるように自分を訓練したい。

けっきょく家族のことで、悪い気がするわけではないし、言いたいこともあろうけどわたしももう大人だし、みたいな感じで、好きで大事が空まわって自分でがんじがらめになっている気がする。そう、電車で2時間くらいかけて遠くにいった。実家の人たちは車でやってきて駅で合流した。途中までは順調で、しょっぱな一本早い電車に乗れたのは見事だったのだけど、途中で人身事故があって、それはずっと後ろだったけど電車は一時間くらい運転見合わせになった。べつにわたしは悪くないし、どうもできないことだけど、知らない街の青空の広すぎる駅前ロータリーのなにもなさに立っている自分にいい気分になっていいのかわからなかった。出かけた先は楽しかったし、年末どうするのなんて話をして、実家は寒すぎて帰りたくないと今年のはじめは思ってたけどそんなことは忘れて帰ってもいいかななんて気がしてきて、ああまた従順になってしまったと思う。親離れができていない、一言でいえばそうなのかもしれない。またはいまだに子どもとしてあつかわれている、の裏返しかもしれないけれど、他人が変わることを期待しないと思っているので、わたしはひとりで抱え込んでいる。楽しいのに別れたあとにめちゃくちゃひきずる。十年以上前、ひとりぐらしをはじめた日からずっとひきずってるのかもしれない。ひとりぐらしは四年して、それからは結局友人だったり妹だったり恋人だったり誰かと住んでいる。自分が思っているより寂しがり屋なのかもしれない。

色々やりきって寝室に行ったら同居人が三島由紀夫を音読してくれたのでめちゃめちゃ笑った。そのときだけ緊張してなかった気がする。三島由紀夫に癒されている。三島由紀夫を読み聞かされると人は笑っちゃうのかは知りたい。