紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


野放図と呼ばれたい

連休のあいだは絶対に買い物に出ないぞと強く決意して、金曜日、食べ物を買い込んだ。金土日月、まだ4日しか経っていないが、永遠に家の中にいるような気がしてきた。ゴミ出しや運動で外には行くけれど、現金を使っていない。インターネットでは買い物ができるので、少し遠いパン屋の詰め合わせのセットともう少し遠い本屋で何冊かを注文した。気になる本をカートに入れていったら、すぐに送料が無料になるラインを超えてしまったのでそこでおしまいにした。

少しずつ部屋を片付けている。といっても、床に積まれていた本を棚の上に積み替えているだけなのだが。壁と床が見えてくると少し新しい気持ちになってほっとする。しかし本というものは、その他のものと違って「用が済む」ということがわかりにくい。一番思いつくのは「読み終える」ということだけど、読み終わったうえで、必要か不要か(こんな言い方はしたくないけれど)が決まるようだ。読了がスタートだ。読んだうえで持っておきたい本または読んでいない本がこの部屋にはごまんと積まれている。でも少しずつ本と向き合っている。それは自分と向き合っているみたいなところももちろんある。それに比べると服飾は何年着たとか今の自分には似合わないとか踏ん切りがつきやすい気がする。購入することがめっきり減ったので、少しずつだけれど減っている気がする。あいかわらず部屋はちらかっているのだけど、袋に詰めてこれだけ出した、というのがあると気が楽になる。……ということは、わたしはほんとうは身軽になりたいのだろうか。

あるジャンルで○冊とかなんとなくしばりをかけてしまうのだけど、誰ぞの本棚紹介みたいなのを眺めていると、数冊なんていわずにババーンと本棚に立派なコーナーができていたりするので、そうしてもいいのかと思ってしまう。わたしの意思は弱い。

ときめくものとまではいわないけれど、迷うものは捨てなくてもいいかな、というふうに考えている。少しでも手もとに置いておきたいと迷うのだったら持っていていい。でも、自分にその度量があるのかもあわせて考えようという気分だ。手ばなせばすっきりするといっても、ミニマリストをめざしているわけではなくて、適度なものを、身の丈にあった範囲で持てばいいのだった。……なんて、それが難しいのだけど。でも意味のわからないぐらいに量を持ち、埋まり、野放図と呼ばれたい気もする。いつもその瀬戸際にいる。

注文した書籍はのんびり待つつもりが、出かける前にした確定が帰るころに発送になって、次の日の夕方には届いてしまった。ありがたいが早すぎて情緒がない。かくして、また新しい仲間が積まれているのだった。積みながら読んでいる。地震があったら危ないなと思いつつ。