紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


だささだ

一週間ぶりに職場に行った。ぐったりしている。やはり労働ってつかれるんだね。明日もあさってもだよ。そういう当番だよ。3日も連続して職場に行くということがもはや脅威になっている。なんてだるだるな人生に。世界が戻ったとして、職場がもとに戻ったとして、以前のような働き方はできないのではという懸念がある。なかなか怖いんである。

毎日おなじ扉をあけているような気持ちでいるが、季節は変わり、わたし(たち)は歳をとっている。歳をとるということを単なる事実としてとらえ、否定も肯定もない感じで使いたいのだが、ふとその言葉の背負いがちな呪いについて考えはじめると足をとられる。時間は不可逆であることによって、失った(失う)ものばかりに目がいってしまう。これから、もしくはこの瞬間に得られるものもあるのだと、とても無邪気に無謬に思えている。それは幼さのような気もするし、何周もしてようやく手に入れた境地という気もする。だれかにばかにされるかもしれないけれど、それはわたしが得たものなのだ。

(この意味わかんない感じ懐かしくないですか?)

文章について、以前より考え方がまとまらなくなっていて(それは確実に老化!)単純なことしか書けなくなっているのだが、読み返してみると、(自分ですら)説明不足がひどくて、こりゃあいかんという気がする。簡単なことを独りよがりで語ってしまう、子どももしくは老人の語り口ではないか(子どもおよび老人の皆様、気を悪くされたらごめんなさい)。わたしが有名人やら文豪やらであればそれを有難がってくれる人もいようけど、残念ながらわたしはそのへんの野原の花でしかない。花ですらないかもしれない。誰も踏み入れることのない日陰の。名もない草。ぺんぺん。何を書いているのやら。

Zoom会議をしようということになり参加した。が、なんも言うことがなかったのでなにも言わなかった。ずっときいていた。最初にあいさつをしたきりで、画像も切っていたので、最後の方で「生きてますか」ときかれた。きかれたらきかれたで、どもって答えてしまう。ことのだささ。どもることがださいわけではなくて、自分の語りとしてどもりを採用してしまうことのだささだ(下から読んでもだささだ)。甘えているとも思うし、自分がどもらないで語れること、が正しさとしてあると感じてるのもださい。しゃべる練習をしたいとも思うのだけど、話したいことも特にないんであった。