紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


好むと好まざるとにかかわらず

他己評価が実感と一致せず、ちぐはぐなままいるけれど。第一それが一致する場合なんてあるのだろうかとも思うけど。でも一致しないと大変だから大体の場合は一致しているのではないかと予想する。こうありたい自分(理想)と実際の自分(主観)と他者からどう見られているか(評価)はごわごわと重なったり欠けたりしている図を頭の片隅で描きながら。

ある時期、理想の自分というものをめいっぱいにやっていたことがあり、今思えば無理していたような気もするけれどそのときは全然苦じゃなかった、それが自分のスタンダードになってしまっている気もする。理想の自分は働き者でがんばり屋だった。現在の実際はといえば、すぐ眠くなるしやるべきことを後回しにしてしまう。他者からの評価はどこからできてるのか、といえばもちろん自分の言動なんだけど、自分が意識していない部分が強く他者にはたらきかけているような気がする。コントロール不可能、でも昔はコントロールしてたんだから、という意識との齟齬があるのかも。あいまいに微笑んだりすると余白を他者の解釈で埋められてしまうの、やめてくれと思うけど、ならば自分で余白を埋めていかないといけないのか?

ワークショップに参加してああだこうだやって、最後に発表しないといけないので短い時間でがんばる。こう思うからこうする、ということをつねに言っていくのはたいへんに疲れる。日常的に接してる人とのやりとりはなんて簡便になっているんだろうか。ちゃんと伝えたつもりでも、相手がちゃんと受け取っているのか怪しいし、例で出したものを自分の考えみたいにとられても訂正する気力もなかったりして。時間がないので雑になるような気もしながら、でも話しておくとペアの人がくみ取ろうとしてくれたり自分でも意識にのぼるので大事だと思った。段取りがぜんぜん覚えられなくてお味噌だったと思うペアの人には感謝しかない。記憶、得意な方だったけど今はそんな影もない。わたしがおぼえてられるのは単語だけだったという気がしてならない。