紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


進歩主義のバレンタイン

所用でデパートに行く。地下道とつながっていて地下から入る。お菓子のコーナーで、そういえばバレンタインが近い。というか2週間後、ならばもう買ってもいいかもしれないとか考えて、よさそうなところで期限を尋ねてみたら「2月14日までです」と言われて、当日か~~~~~~~ってなってやめた。お姉さんの勘違いかとも思わなくもないけど、もらったチョコレートを一日一粒ずつ大事に食べている人を思うと危ない橋は渡れない。バレンタインどうでもいいと思いながら喜ぶんだもんなー楽しみにしてるもんなーと思って毎年乗っかっている。チョコレートおいしいからわたしもほしい。ってこれも毎年言ってる気がするね。

この時期は普段ないチョコレートが出るから楽しい。そしてそういうチョコレートは高価く、おいしく、ちょっと大きな駅まで出ないといけない。同じ人に何年もあげていると欲が出てくるというか、今までよりよい(よさそうな)ものをみたいにやっていると、量、質、値段、奇を衒う、など頭をひねることになる。高級チョコレート、単純に値段と美味しさが比例しており(たぶん)、わかりやすいのだけど、けっきょくカネかーとすさんだ気持ちになってくる。すべてを投げ捨てて手作りという手もあるのだろうけど、最上級のチョコレートって何であらわされるのか段々わからなくなってきてしまう。

実家では母が毎年生協で同じ詰め合わせを注文していて、特別な一品というわけではないのだけど、毎年同じ絵柄を家族で分け合って食べていた。めちゃめちゃおいしいわけでもなく普通のチョコレートなんだけど、それを毎年選んでしまう母とか、実家を出たあとも近い日程で会ったときに渡してきたりとか、感傷がついてまわってやばい。過剰に意味がついてしまうのは嫌だけど、毎年同じものにしちゃうのも手かなと思ったりして。ジョブズの服装と同じ発想よね。