紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


一年ぶり

すっかり秋でもう冬ですねとか言いたくなるけど、冬はまだこんなもんじゃないという感じだ。知人が「冬になるのって一年ぶりだから服装がわからない」と言っていた。ほんとうにそう、季節はいつも一年ぶりだ。十一月もあっという間に後半になっている。なのに頭の中は夏のころのような感じでいるので、体感とは別に時間が止まっているのかもしれない。

今年の頭からジョギングをはじめたので、もうすぐ一年になる。目にみえる変化はないけど、なんらか影響はあるのだと思う。絶望的な腹部のふくらみはなくなったし、久しぶりに山に行ってみたら疲れにくくなった気がするし、この信号渡りたいとかの小さなえいやあが苦ではなくなった。みたいにポジティブな感触がある。ここは言い切る。はじめは脅えて2kmくらいだったのが今では8km走ってわははと思っている。本当はもうちょっと行きたいけどここからは少し負荷をかけないといけないような気がしている。ゆっくりやろう、と思えている。

このような変化は前進、という気がするけれど、季節ってはたして前進なんだろうかと思ったりする。去年の冬より今年の冬の方がいいのだろうか。または秋よりは冬、冬よりは春、春よりは夏、夏よりは秋が進んでいるのかといえばそうではなく、単なる円環で季節は基本的には同位だ。もっといえば時間や時代だって同位なんじゃないか。でも新しい方がいいとか古い方がいいとかそういう言い方をされがちというか。思いがちというか。そういう言葉に対する感覚、感覚の変化が対象の変化を錯覚させるよなーと思うことはまあまあある。それを言いはじめるとどこにも行けないいつものあれなのだけど。すべてのものはあるだけなのだよなという気持ちがする。

アンティーク市のようなところに行って、そこでは古いものが新しいものより "よい" という価値観が優位なのだけど、そして現に素敵な古いものもたくさんあるのだけど、それはたとえばファストファッションみたいなものに対抗するわけではなく、今自分の持ち物が時間を経て古いものになっていくわけだから、共存させることができると思った。自分の持ってるものを誇ったらいいのよ。ってわけで相変わらずものに囲まれていますけど、やたらと減らせばいいってわけではないなと落ち着いてきたところ。好きな古本屋を外部本棚と思って売ったり買ったりしていくのも楽しい気がしてきた。手放した本、だれかに貸してるだけって思ったらいいんじゃないか?