紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


お弁当の生存戦略

 弁当がわたし達をドライブする。そんなこと、本当にあるのだろうか。些か、いいえ大分うたがっている。しかし日々が弁当中心になっているのは専ら事実である。つまり弁当ファースト、明日の弁当のために今日の夕食をつくり、分けておく。米を炊く回数も増えた。起きる少し前に炊けるようにタイマーをセットし、蒸れたころに起き出す。お湯を飲みながら米をつめていく……。日々のルーティンに弁当関連の事項が増え、やがてそいつらは我が物顔にわたし達の生活の中心に鎮座する。いつしか弁当を食べるために職場に行くくらいの気持ちになっており、すべてが弁当のためのおまけ。曼陀羅の中心にあるのは弁当様だ。

 

「こんなの絶対おかしいよ……」

 そう思いながら、つぶやきながら、仕事帰りのスーパーマーケットで野菜をみている。冷蔵庫の中には夕食に困らないくらいの食材はある。だがしかし青菜がないのだ。弁当に緑色をあたえる青菜が。本来ならなかった外出、出費、これもすべて弁当様のためなのだ。明日のわたしを食わせる弁当。束の間仕事を忘れさせる清涼剤。社内食堂? 昼食まで会社のいいなりになる気なの。そんな風に考えてしまうようになって、以前の自分なら決してそんなことは言わなかったのに。思わなかったのに。

 弁当様はわたしの体内に入り込み、一部はそのまま吸収される。しかしある一部は脳内へ、また心臓から血管にたどり着き、わたしの思考を行動を統御するのではないか。という妄想。しかし強ち間違っていないかもしれない。

 ある種の寄生虫は主の胎内に潜むのみならず脳まで到達しさらにその身体をあやつり、己が種のための行動をとらせるというではないか。驚くべきことに脳に向かうもの(司令塔)と胎内に残るもの(次の寄生先へ届く)とに分かれる分業制をとったりもするのだ。わたしの身体が弁当に、弁当様に操られている可能性だってないとはいえないだろう。

 しかし何のために?

 ここから先は想像に過ぎないが、話半分にきいてほしい。その解はもちろん種の繁栄のためである。弁当という生物は古くから存在していたが、時代によってその形態は異なる。また嗜好の変化によって多くの亜種が生まれたことは誰しも知るところである。生活スタイルの変遷や個別性によって姿をかえる、弁当とは人間に依存した生物であったともいえる。弁当の歴史は人間のエゴに振り回された歴史であり、次の瞬間に隆盛するか衰退するかは人間次第であった。剰え、人類が弁当を必要としない時代が来るかもしれない。そんな不安定さを惧れてか、いや弁当にそれほどの知能があるとは思えないのだが、生物としての生き残りを賭けて弁当様は進化したのだ。すなわち、依存するだけではなく、積極的にみずからを欲するようにしむける。宿主の胎内で次代の弁当をつくらせるためにはたらきかける。それが完成した暁には捕食されるだけでない完全な共生関係を人類と築けると弁当様は信じたのである。この歴史的転換が弁当史のみならず人類史に刻まれ、生物の教科書に載り、ナショナルジオグラフィックで特集され、いずれは地球的事実としてエンデバーなんかで宇宙まで届けられるのだ。がんばれ弁当様、レオナルドダヴィンチの絵の横にえがかれろ!!!

 というようなことを考えながらまた冷蔵庫の中身を思い出しながらいそいそと買い物にでかけるのであった。

 

L'Homme de Vitruve, Ecce Homo _DDC6008