紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


一瞬のことばを重ねても歴史にはならない

うまれたての言葉を寝床にいれてみた。たくさん眠って大きくおなり。その一方で、寝かせてしまうの勿体なくない? という心持ちがある。言葉にもいろいろあるとは思うんだけど、感情的でフレッシュなやつは即時性があり、論理的で重厚なやつは時間の経過に耐えうる感じがする。思いついたばかりの新鮮で若々しくてぴちぴちのそれを閉じ込めてしまうのは罪では? 若さを萎れさせてしまうのは可哀想では? というの、そのまま若さを無駄にするのたとえと重ね合わせることができるのすごくない? ほんとうに最近それをどこかでみて、世阿弥がそれを「時分の花」といったやつ、新しく勢いのある言葉はそれだけで魅力的、しかしそれに甘えず熟成させよう、、、と思った。封印! ただイメージがぬか床なのは御免。

というのは考えたはしから書いていてこっちはアップしようとしているのだから笑う。でもたぶん、一年後に読んだとして、その文字列にはなんの魅力もないんじゃないかと思う。しかし、なんのない文字列もとても昔の日付が入っていたら、ホウホウ、時を経た大事なテキストかなと思って読むかもしれない。それもなんだか笑える。ブログという場所は書くのと発表が一体化してしまっているものだから、そもそも向かなくて、そしたらやっぱり紙の日記が最高なのかもしれない。

そしたら、わたしはメモ魔で日記魔なので、十年くらいはいろいろな記録があり、たとえば昨日書いた競馬の日の日記を見てみたら「アヌエヌエ」とメモがあり、たぶんこの日一番面白かった馬の名前で、そいつをグーグルしてみると最近(といっても昨年)の成績なんぞがわかった。当たった馬券は間違って買った馬券なんだって。そうかそうか。こうした情報は興味深くはあるけれど、時間を経て意味があるのかといえば、やはりどうにも心もとない。わたしが日々書き留めているメモたちは、貴重な一瞬であるが、一瞬の積み重ねを歴史とはよべないんだろうな。歴史は選ばれてつくられるものだから。

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出た! めちゃくちゃな言い切りシリーズ!(ほかに「雪女は虫(が集まってあの姿)」などがある人気シリーズです)

尻尾の長さrを半径とする球体部までが尻だそうです。