紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


リハビリテーション

ここ一週間ほどの何日か出かけていて、またはその後処理のようなもので、非日常が続いていて、しかし今日はこの時間にPCの前に(いつものように)いて、それが、やっと落ち着いてきたなぁと実感させる。そしてまた、わたしは普段になにを書いていたのかわからなくなって困っている。日記。日記とははたしてなんなのだろうか。忘れるために日記を書いているつもりなのだけど、「書くこと」を忘れないようにしなくてはと思う。

芥川賞受賞の「火花」を読みはじめた。そのうちに、なんて思っていたのだけど、職場の近くのコンビニで買った。普段は雑誌コーナーも書籍コーナーも見ないのに、なんだか目が合ってしまったのが不思議だった。それが、未成年は買ってはいけない雑誌のコーナーの囲まれた上の段に『文藝春秋』が三冊。なにもここに並べなくてもいいのにと思いながら財布の中身を確認してレジに持っていった。

団地の中にあるコンビニだからか、会社員は少なく、だるい格好の人が、それも高齢の客が多い印象だ。レジでは60代くらいの老人が携帯やライフラインの料金の払込票を何枚も出していた。店員も「おじいちゃん、水道は最後に止まるんでしょう」なんて返しながら。世話好きな店員が多いようで。

そうしておとなしく並んで購入した雑誌には先日の芥川賞の受賞作がふたつ載っていて、それを順番に読む。そういえば、以前も芥川賞めあてでこの雑誌を買ったおぼえがあるけれど、あれはけっきょく誰のときだったんだっけ。思い出せない。

そしてそれを大切に嘗めるように読むのだが、と大切にしていると読まないでしまったままになってしまうので、気持ちをえいやっと振り払って多少ぞんざいに、寝転がって読んだ。心の中では嘗めるように読んでいる。まだ途中までしか読んでいないけれど、なんだかいつもわたし達がブログに書いて/読んでいるようなことが書いてあるように思えて親しみを感じ、一方でそういうものなら何度も目にしたよという気持ちになった。美しいもの、(文)藝というものについて書いてあるような気がした。まだ途中なのでどうなるかわからないけれど。作中で雨が降るシーンに来ると、外から急に大きな音がしてきて、雨が、大雨が、ざっと降りはじめていて、しまったしまったと栞をはさんだ。

上記のようなことを書いていて、ブログを書いていることで、もしくは読書人として道程を経てきたことで、自分の見る目が変わっているということはあるのだろうか、と考え、その語(あるのだろうか)を選択するのは、投げやりだし、自分に対してもどこまでも傍観者でいたいんだろうなぁと幾分シニカルに分析をはじめてしまう。ここを言い切らないことで守れるもの(というか、失わないもの)のことを考える。

が、それは脇道なので本道に戻ろうとすれば、わたしは、「(自分の見る目が)変わってしまった」と思った。思ってしまった。それを安直にも「成長」と考えそうになるのに気づいて急きょ言葉のハンドルを切ったのだった。成長したい、していると考えたい一方で、そうした単純な思想に乗ることを恐れている。ここにきて、わたしの語尾はたいへん弱くなる。リハビリテーション