紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


魔法はもう使えない

「よくあるサイケデリックな話」とはなんだろうか。敬愛するバンドのライブを観にゆき、うまれかわった気分になった。対バンは真っ当なロックバンドで、高校生くらいにきいていたらすごく好きになっていただろう。という評。愛とか友情とか希望とかをまっすぐに歌っていた。そういうものものは通りすぎてしまったんだよという気がした。

食事をしながら魔女の話をした。常では理解できないバイタリティ、賢さ、その反面、人を傷つけることに長けている。人々は彼女に魅せられて、そして傷つきいたんでいく。どうしようもない。距離をとるのが賢いが、傷つけられたくて近づいてみる向きもある。破滅に向かう願望があるのではないだろうか。
正しい人だけで世界は構成されないから、どんな傷もエラーとして受け入れて、生き延びていくしかない。かもしれない。適者生存の言葉が重みを増す。

すっごい好きなミュージシャンとか文筆家とかなんでもいいけど、その作品が大好きだったとして、作者が犯罪を犯したとか人格破綻者で近い人は泣いているとか政治思想がひどいとかなんかそういうのがあったときに、自分はそれを受け入れられるだろうかということを考えた。それも含めてそのまま好きか(もっと好きになるか?)、作者はアレだけど作品はいいよねと考えるか、全部嫌いになってしまうか。難しいし、そんなことあったら悲しいし、そして悲しいと思ってしまう自分は弱いと思った。

大量の子どもが遊んでる空間に行って、それにともなう大量の親も見た。もし自分に子どもがいて、かれらのように子どもにつきあって追っかけまわしているとしたら、自分が子どもだったころを思い出しているんじゃないかという気がした。子どものころのことを忘れてしまうわたし達にそれを思い出させるのが子育ての役割なんじゃないだろうか。子どもの記憶を持つもの(親世代)が一定量を超えるようなシステムなんじゃないかという想像。子どものためにしているというよりは、もっともっと大きなもの。「自分たちのためにやってます」って言っちゃえばいいのに。「子どものために」っておためごかしな気がしたの。でした。
日本人ではない子もいて英語を叫びながら日本の子と遊んでいた。というか喧嘩していた。言葉がぐちゃぐちゃでもやりとりできるのが不思議だけどそれが自然な気がした。成長していく期間(というか生きていく期間全部かな)に出会う刺激の多様性は絶対に必要だと思った。さまざまな年代、性別、国籍、思想、性格、ぐっちゃぐっちゃな人間になるだろうけど(ぇ)、とにかく変化に強そうだ。「地域で子育て」の真髄ってそこなんじゃないかなー。と勝手に考えていた。

同居人が台所に立っているのを見て、ふと父親のことを思い出した。昔の記憶だ。末子はまだいなくて、わたし達は四人家族だった。なんのためだったか、四人で駅まで歩いていた。とても天気のいい日で、半そでではなかったしおそらく春だったのだと思う。左手には小学校、右手にはまだ稲のない田んぼが広がり、車もほとんど来ないアスファルトを歩いている。太陽はぽかぽかとしていた。わたしは父と手をつなぎ、愉快で誇らしい気分だった。あれが幸せという感じだったのでないかと今は思う。まだまだ幼いころで、父の背は随分高かったような気がする。かれは珍しくジーンズを履いていて、それが格好良かった。インディゴともいえない濃い青のジーンズ。しゃれたデザインでもなかったけれど、あまり見ないその姿に嬉しくなったわたしはひとつお世辞を言ってやろうと思って、「若く見えるね、20代に見える」と言ったのだった。思ったとおり両親にはうけて、母親は少しびっくりした顔で何事か言った。30代半ばの父はにやにやと、厭らしい感じではなく笑っていた。