紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


強がる世界を鯨飲する

生きている以上はとにかくいろんなものをひきずっているわけだけど。

人でも状況でも、理解できないとか気持ち悪いとか思ってしまうことはある。そりゃあもう数えきれないくらいある。でも、その理由をどこかに還元すれば気がすむのだろうか。

病気や障害だったらしょうがないね、性格だったらあの人は困った人だね。っていう。でも、原因によって態度を変えるのは正しいんだろうか。なんにせよ、汚いものは汚くて、正しくないものは正しくないんじゃないだろうか。

うわっと思うようなことがあっても、それでも見続けてしまう。変な言い方だけど、歪みには魅力があると思う。嫌悪や違和感をおぼえてもまだ気になってしまうこと。理由探しなんかしないで、じっと見ていること。見つめることで、次の展開があるように思っている。

例を出すとえぐいよなーってことばっかなのだけど。自分の感情を正当化するためだけに考え続けているような気もする。コミュニティの成員に「お荷物」的な人がいて、苦手というか、なんだか奥歯にもの挟まったような接し方しかできなくて、それはかれが半人前だからで、コミュニティには「子ども」がいるのは当然なのだけど、でもその人は「おとな」になりたがっていないのだ。

「おとな」にならない「子ども」にできることなんてなにもないよ。道化のようにあつかって(かれはそのポジションを気にいっている)、いないところでは嘲笑するようなふるまいしかできない。し、陰でなんのかの言っているのも嫌で、切り離して無視できれば心穏やかになるのかといえば、それは違うし。

歪んでいるのだ。かれもわたしたちも。その状況を丸ごと受け入れたとして(最近できるようになってきた)、かれと顔を合わせるたびに起こる感情はやっぱり不快で。外形的にはちゃんとなっている。でも違うのだから、ほんとは状況を全部つきつけてやりたいくらいだけど、そしたらまたひきこもっちゃうんだろうなーとか。なんか。そういう。

わたしは。この状況は正しくないと感じている。適当な理由をつけて、「しょうがない」とか「困ったね」とか言いたいわけではない。「正しく」なりたいわけでもない(そうなれたらいいのだけど、そうしてもまた別の問題が出てくるんだろうな)。

歪んでいる状況を表に、日の当たるところに引きずり出したいのだ。陰口ではなく、面と向かって。かかわる人たちみんなの目の前に。逃げないで。言葉にしたい(してほしい)んだ。急進派だわ。たぶん。なんか。わたしは切り込んで行っちゃう人なんだと思う。

べつにいいじゃんっていう人がいて、なんであれ弱い個体は守られるべきなのだと思って、ぜんぶまるっと飲み込んでしまいたい。個人の意識が邪魔なんだ。

ああんまとまらないけれど、今のところ、そういう世界を捨てられないでいる。