紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


マスクの季節がはじまる

先週中ごろからマスクをしている。頤にできもの。それの対処に。急に乾燥した気がする。クリームをつけて(わたしはオロナインを塗っている)、マスクで覆うといい。保湿も兼ねられる。

休日、洗濯をして少しだけ衣更えをする。涼しくなったとはいえ、真冬の準備はまだ早い。夏の肌着とヒートテックを交換。長袖ばかりになったけど、今のところまだ困ってはいない。扇風機と冷たいマットも片づけた。夏は残らず去っていった。

同居人は突然に海外ドラマにはまってひとりで観てて、合間合間にあらすじとか教えてくれる。けれども、一緒に観ないならなんの意味もない。ので。わたしはわたしで好きな番組観てたりする。

出てた人が翌日はラジオに出ていたりして。その人はアーティストで。すぐ影響されて仕事やめる前にアレやってやるぞとか思ったりして。やりたいやりたい言うだけで積んでるのでなんともだけど。やりたいことを思いつくのは素晴らしいことだ。

最近の考えの中で伝えることがあるとしたら、「思ったことをやりましょう」で。よくいうようなことだ。それでもやれてない自分が言うのかというのもあるし。でも、そう思ったんだもんね。

 まっくらになった「詩の学校」の中で、わたしはいつか生徒たちが書く筈の詩のことを考えていた。

 きれいで、単純で、力強い詩があるだろう。錯乱して、格好悪い詩があるだろう。

変なものも、気味の悪いものも、ぐずなものも、怪物じみたものも、悲しいものも、幼稚なものも、こっけいなものも、読むにたえないほど馬鹿馬鹿しいものも、規則を守っているものも、規則を守らないものも、規則を知らないものも、はずかしがっているものも、うそつきも、気取っているものも、その中にはいるだろう。

 上手い詩以外のすべてが、その中にはいるだろう。

 わたしは立ち上がり、手探りをしながら教室を出た。

高橋源一郎(1985) 『さようなら、ギャングたち』 新潮文庫 p184(三行目、原文ママ

 

『さようなら、ギャングたち』はたぶん一番好きな小説で(この小説自体は癖が強いので、万人におすすめはできないけど)、このくだりが、文章であり、日々であると思った。「上手」くはないかもしれないけど、日々のすべてが等しく正しいのだ。正しいって正義とかではなくて、ただあるだけって感じなのだけど。

ウェブログを書いてお金をもらってるわけではないけど、わたしたちは誰でも日々のプロだなと思う。考えたことを書くことで、深まりばっかり感じる(深まってるふりして浅瀬をうろうろしている気もするが)。

先月末に「秋の空だ」って思ったことをエントリしてて、それを思うとやばいってなる。暑かったのだけど、ふと秋を感じて、その時の身体性を、記述をとおして、現実の秋につなげる。時間性を文章にのせることはできない(はずな)んだけど、続けた厚みが時間になる。(感じてるのはわたしだけなんだろうけど、)ぞくぞくする。

すっごいむつかしーこととか、皆がふんふんなることを書くのも憧れるのだけど、ただの自分のこと、ただの日々のことを書いて書いて積み重ねて行って、それが少し先で(またはずっと先で)結実するのがとても楽しい。やめられない。五年日記とか書いてるけど、なんかそれとはまた違う感じだ。五年日記(三年日記でも十年日記でもいいよ)も面白いけどね。

どうも、わたしはただの記述好きのような気がしてきたけれど。「これ書くぞ」って思ってると、忘れないように反復するし、めちゃくちゃ考えるからいい感じがする。している。

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感じたあとは空腹の話しよう。


このカレーつくったのです。簡単でおいしいので最高。ナスも最高。

唐辛子2本にしたら、ちょっと辛かったので、辛好きでなければ1本で。苦手な人は唐辛子抜きで。

 

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ナス美味季節。あげびたしも最高。だね。