紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


シェフ - あと一日

   

 

ことが起こってから、ひと月が経とうとしていた。どうなるかはわからなかった。いや、わかりきっていたのに、迷っていた。真っ暗な中を歩いているような気がしていた。嵐が過ぎ去って、元のようになってほしいと思っていた。自分は何もせず、目をつぶって耳をふさいでいたかった。

仕事が目の前にあるのはありがたかった。なにも考えないで済むから。その日もみっちり働いて、夜に帰宅した。シェフからメールが来ていた。驚くかもしれないが、わたし達はまだ連絡をとっていた(思い出してみて、ちょっと驚いている)。ここまで来ると、つきあっているってなんなんだろうって考えてしまう。

「帰りました」とかなんとか返信したのだと思う。手を洗っているうちに、今度は着信があった。折り返す気にはとてもなれず、またメールした。はず。さらにかかってきて、今度は電話をとった。

 

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photo by Toni Blay

 

シェフは、なんだかさっぱりした声で、明るく親しみ深く話しかけてきた。最近は不機嫌な声しかきいていなかったので、怖くなった。お姉さん宅への訪問の結果らしかった。なにがどうして、彼をそうさせたのかわからなかった。いや、わかるか。ひとりでさっぱりして、全部水に流そうとしている。わたしの可哀想さに同情したお姉さんの尽力だ。彼にはまだ人の心が残っていた(と言っていいのか)。

また明日からうまくやっていこうと言われた。結婚しよう、もまた言われた。その日はあんまり時間がなかったから、次の日、夜にお酒をのもうと言われた。胸がつぶれそうだった。生半な返事ばかりしていたけれど、気づかなかったようだった。ただただ高揚した声。自分勝手だと思った。

結局、向こう様の話はしないんだっていう、そこだけにわたしはこだわっていた。言われたら言われたで、嫌な気持ちになるだろうから、それが彼の優しさと思えばいいのかもしれないのだけど。正直に言って、泣いて謝るくらいしてほしかったのだ。性格の悪いことだけど。