紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ぎゃ。とか、ぎょ。とか、

日記からとんと離れてしまっていて、しょくば、は、職場では、来客がなくなったので、同僚の若い人と歌ったり踊ったり、して、いる。ぎゃ、とか、ぎょ、とか、一文字だけ言ってみて、それが空間に取り残されて消えていくのを楽しんでいる。ぎゃ、の余韻。わたしたち以外にも人はいるのだけど、それほどとがめられない。いろいろな子音と母音の組み合わせを楽しんでいる。若い人は「ぬ」が好きなんだって。プリミティヴな遊びをしながら、文章からは切り離されている感じ。で、漫画とかアニメの表現みたく、日めくりのカレンダーがぱらぱらと飛んでいくように、一日と一日の連続性があるようなないような、ずっと同じことをやっているような、昨日がぐんと遠くのような。

手は鬼、というのが合言葉というかお守りみたいになっていて、正確には「目は臆病、手は鬼」らしいのだけど、とにかくひとつずつやっていく、目で見ると大仕事のようなものも、いつの間にか終わっている、実感としては "目" よりも "気"(が焦る)って感じはあるけれど、とにかく昨日ふうふう言いながらやっておいたことが、今日の自分を少しだけ楽にする、ということがわかってきた。とはいえ、仕事はがんがん積まれきて、また気ばかり焦っていくのだけど、そういうときは飲み物をのんで、虚空に語をえがいてみたりして、なんとか過ごしているのだった。

世紀末

ローソンにばかり行っている。

 

このご時世だ。同居人は自宅勤務となった。わたしはかろうじて出勤しているが、職場にくる人はいなくなり平和を謳歌している。帰宅すると、同居人(勤務中)がいる。これはおそろしいことだとつぶやく。買い物の重い荷物を下げながら、ひな鳥のために餌を運ぶ親鳥のことを考える。

もしかしてヒトから動物にコロナウィルスが感染ったかもというニュースを見て、まじでこのまま人類は滅ぶかもという想像をした。今はまだのん気にしているけれど、事態が収束しない可能性もなくはない。ゆっくりと破滅に向かっているのかもと考えて、そうするとこれはノストラダムスの大予言に似てるのかもと思う。そりゃあ、世界は滅びなかったし大半の人は信じていなかったかもしれないが、当時十代だったわたしはそれを信じていないようなそぶりででもそうなるのかもなんて思ってみたりもした。イチキューキューキュー七の月までのカウントダウンの空気だ。きっと世界は終わらない。でも静かに死んでいっているような気がする。

 

なんてことを考えるのは最近『エヴァンゲリオン』を観ているからかもしれない。先ほど、アニメ版を観終わったところです。同居人の解説もあってなんとかあらすじがわかって、いただけないところもあるけれど、おもしろくはあった。あれだけ科学力があるのに14歳の子ども(たち)に頼らないといけないのは世紀末の感だ。アニメ自体は25年前のものだし、舞台の2015年は今から5年前だ。スマホないんだなーとか思いながら、現代の感覚で見るとまず「児童虐待だろ」ってなったし、大人の子どもたちへの接し方がないないないないない!!! 男女観も労働観も古すぎてつらかった。わたしがおとなになってしまったこともあるだろうけど。この作品の人気は「わからなさ」に依拠するところが大きいような気がした(同居人いわく「終わる終わる詐欺(コント)」とのことです)。

 

アリとキリギリスのことをたまに考える(自分はぜったいにキリギリス側だと思ってしまうことへの不安というのが第一にあるけれどそれはおいておく)。

アリであることがいいこととされているけど、アリはいつまで働くんだろう。物語の中では秋まで働いて冬はそのたくわえで優雅にすごす。現実の "冬" はいつ? 高校を卒業したら、大学を卒業したら、就職したら、結婚したら、子どもが巣立ったら、老後の生活のめどが立ったら、、、またそうではない人生も多くあり、はたらく時間を必要なたくわえを自分で決めなくてはいけない、と考えるとアリもそれなりに窮屈な気がしている。