紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


A面とB面

わっ、にがつ。2月だった。気持ちとしてはまだ8月くらいの感じなのに。わたしの精神だけがいまだ昨夏にいる。忙しい時間があり、過ぎ去ってなにも残らない、無、だ。無があるぞ。なにもないのだけど、そのときの疲れや感情はどうにかある気がして、その手ざわりを確かめようとしている。

急に、ふと、自分は "よわいもの" だったと思い出して(弱者とかマイノリティとか、でもいいんだけどそれらとは少しニュアンスが違う)、よわい個人としてのわたし、に気づいて、というかそうだったことを思い出して、どうにか生き延びたことをまず言祝ぐのがいっとうなのだけど、それを忘れて、いつしか普通のふりをして、強いものみたいなふるまいをしているんじゃないか。そういう考えに近づきがち。それは言葉からはじまり、思考や行動をしばる。ありきたりの言葉にうたがいを持つということは、だれかの言葉を借りることをうたがい、自分で考えて、話し、書き、責任をもちたいという心持ちなんじゃないかと思う。思い出す。すぐに忘れてしまう。これはレトリックというよりアティテュードのはなし。

よわいひと、この世の人すべてがよわくてもいいんだと思う。それに、弱者が集まったら強くなるみたいな幻想を持たなくてもいいんじゃないか。集合は力になるかもしれないけど、ひとりひとりはよわいままでいいんじゃないか、というような。権力を忌避する。きもち。

まあでもそれは時代に合っているような合っていないような。二極化しているかもしれない。最近はそういうモードだから世間で(といってもわたしの世間はインターネットのことなんですが……)流行っている物語ってよわいひと(弱者・マイノリティ)の(小さな)声の話なんじゃないかととらえている。世界は確実に変化している。一方でそれにあらがう声も大きくなっている気もする。あーでも二極化じゃなくて、おんなじことなのかもしれない。A面とB面なのかも。ね。