紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


遠くまできた

実家に帰ったのが思ったより楽しくて、わたしは正月に実家に帰ることが嫌すぎて、直前は気が重くなったりしていたのですが、これはどうしたことだろうと思ったのは、当然だけど年末より10月の方が暖かいということで、すご、すご、過ごしやすい!!!

こたつのない我が家を見るのは久しぶりで、さすがにわたしがいた数日の間にこたつは設置され(とはいえ土台に布をかけただけだったけどそれでも暖かい)、11月に入ると寒くなったのでよいタイミングだった。災害の関係で家族が家にいたこともあるだろう。食事をして、のそのそと作業をして、食事をして、散歩と昼寝をしてまた片づけをするというのは非常時なのにのんびりとしていて、心地よかった(いやもう非常時ではないのか、つねに非常時なのか?(なんて))。みたいなことを考えていたら、安易に正月にも帰る約束をしてしまっていた。し、正月の寒さと忙しさが苦手だっただけで、べつに実家のこと嫌いなわけじゃないんだとわかってほっとした。

この帰省で(というかいつもだったりするけど)わかったのは、わたしはまだ子どもあつかいされたいし(べき、と思っている可能性もあるが)、親もまだ子どもあつかいしたいのかな、ということ。そう考えると十全な子ども時代とは、みたいな気持ちになってしまって、その考えから遠ざかりたいから実家を忌避していた面もあると思った。親も子どもあつかいしたいというのはたぶん半分は違って、結婚も子どももないわたしたちを切り離して考えるきっかけが見つからないのだと思う。いやーしかし、親はわたしより医者との方が親しいんだろうなと考えるとせつなくなるよね。親とは親しめという意味でこの漢字なんじゃないかという新説。を。

考えないようにしてきたその気持ちと対面することもひとつの手だろうし。無理くりフェーズを変えるというのも有効なんだろう。たぶん、多くの人は意識的か無意識的か違えどそうしてきたんだと思う。

結婚願望も子どもをもつ願望も薄いのだけど、年齢を重ねてきて、それが薄いということがつらくなってきたりもしている。そもそも恋愛わかんねーもんなーーーーーという気持ちだ。性別もわかんなくなるときあるもんね。身体は女性なんだけど、そこから先はよくわからない。わたしはわたしでしかないと思う。人々は自分の性別をうたがいないと思っている? ことが不思議????? 身体は男性で心は女性ですっていう人がいるけど(逆ももちろん)、その人の方がわたしよりずーーーっと "女性" っていう意識あると思うもの。とはいえ、身体は女性でつきあったことがあるのは異性だったし(この先もそうなのかはわからないけど(そういうとこね!!))、女性とつきあいたいと思ったことないし(でもそれを言いはじめると男性とつきあいたいと思ったこともあったかどうか、、)蓋然性が高いのは女性で、でもそうなのかなーーーと思っていて、それらをどうにか押し込めて栓をしてひとのかたちをしてるのがわたしです。30年以上生きていて、アラのフォーも近いというのにまだまだ振り出しにいる感じなの、が、怖いですね。でも生活自体は楽しいし、それらと向き合わないでふんふん生きて、それがわたしでしたーーーっていう人生もあるんだろうなと思いはじめている今日このごろ。遠くまできたね。